いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

休みの日の朝は清々しい

休みの日はスッと起きられる。

これほどまでに平日と違うかと言うぐらいに起きられる。

平日はいくら寝ても寝足りないぐらいに起きられないのに。

でもこれってよく考えたら子供の時から全く変わってない。

子供の時も平日の朝起きることが苦痛だった。

いや、平日だけではないな。

休日は野球があって、その日も嫌だなと思いながらも無理矢理起きていたことも多々あった。

特に試合の日はボーッとしたまま家を出ていたような記憶がある。

気後れするようなことがそのあと待っていると思うと、朝起きれないらしい。

これは誰でもそうなのかな?

ちょっとでもその日のイベントに不安を感じると途端に身体が拒否反応を示す。

そんなことなら止めればいいのにとも思うけど、止めるという決断をしたことは今まであまりない。

野球も引退の時期が来るまで辞めなかったし、学校も卒業するまで続けた。

この2つは期限があるからいいけど、仕事には期限があってないようなもの。

定年の年まで耐えるという方法も無くはないけど、それって果てしなくない?とも思う。

精神が果てるか、肉体が果てるか。

どちらかを待つというのもナンセンスな気がする。

そう思うなら積極的に止めるという行動をどこかで選択しないと、あの平日の朝の起きにくさから離脱することは出来ない。

あの地獄のような時間を体験することはもう止めにしたい。

平日の朝毎日思っている。

ただそこまで精神的に追い込まれているかと言われるとそうでもない。

ここで発信できるぐらいの程度であることを思うと末期ではない。

僕の場合おそらくそこまで追い込まれたなら、文字を打つ気にもならないと思う。

完全なる虚無の世界に落ち込むだろうと思うから、今のところそこまで追い込まれたことは僕史上まだない。

ということはまだ行けるということでもあるが、ただただ忍耐を続けられるほど根気強い人間ではない。

進むにも勇気がいるし、離脱するにも結局勇気がいる。

どちらも決断しないという選択肢は本来ないんだろうけど、惰性でこれまで生きてきたことを考えると、そうなってしまわないとも限られない。

積極的待避を選択出来るのか。

理想もちろん積極的選択であって、待避ではない。

でも積極的待避でもありではないかと思う。

僕のような凡人はどうやって生きているのだろうかといつも不思議に思う。

特殊能力を持ってない人の人生の処世術を知りたい。

でもそんなもの世の中が求めてないから、見当たらない。

自分自身で探すしかないということかな。

 

凡だからこそ凡の道があるのかもしれない。

凡こそ探求の道を歩むしかないのかな。

それも辛い。