いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

サンキューの年を迎えて世のために行動する

前回に引き続きもやもやがすぎるのでもう少し書いておこう。

 

昨日も新たなもやもやが発生した。

学生時代からの元同僚が職場を退職するから、後輩からその元同僚にサプライズでメッセージを欲しいと連絡があった。

元同僚は最後は多分その職場で長を務めていたと思う。

おそらくは周囲からの人望もあり、尊敬されている存在だっただろうと言うことは容易に想像がつく。

元同僚と袂を分けて早10年恐ろしいほどの差がついていることにもやもや。

まあどれほど仕事に時間と情熱をかけてきたかという差が歴然としている以上。

そこに変に執着しても仕方ないとは思っているが、少しもやもやを感じている。

現実とはやはり残酷なものだとも一瞬思えた。

でも僕があの職場を先に辞めたときに、お互い別の道を歩み始めていたのだから、現在地が全く違うところにあると言うのは当然と言えば当然のこと。

今更思い返す必要もないこと。

それを差と捉えるのか、いる場所がただ違うと捉えるのか。

それだけの話だと思っている。

でも僕は人にはあまり見せないが、負けず嫌いの、僻み根性ありまくりの鬱屈とした性格をしているので、その状況をすぐには受け入れられず、とりあえず後輩から連絡が届いたメッセンジャーを開いたついでにfacebookを開いた。

そこにはまた見たくない現実が多く投稿されていた。

他の元同僚もまた別の道を歩み、自分のやりたいことをやっています的なことを滔滔と書いてあった。

そうかみんなやりたいことやってんだなと。

僕もやりたいことあったんじゃなかったっけって思ったらなんとなく寂しくなった。

今まで同じところで悩んでいるような気がして、結局は10年前と大差ない生活を送っている。

 

まあ結局はそういう風に選択したのは自分であって、他の誰の責任でもないことを考えると誰を責めるとか、誰が悪いとかでもなく、ただその現実がそこにあるだけということだけど。

 

もんもんとするのが僕は好きなのだと思う。

そのおかげでこうやって好きな文章を書けている。

ネタとした現実があると捉えれば別になんとも思わなくなってくる。

ただこの文章を仮に読む人がいるとすれば、そんなことは感じずに、めんどくさいやつだなと思うはず。

 

まあこれだとまたいつもと同じところで止まってしまうので、もう少しだけ違う風に考えてみようと思う。

 

元同僚たちの歩みを見ていると、ただ今目の前にある課題に取り組み、どうしたら楽しくなるか、どうしたらその課題を乗り越えられるかということをひたすら考えた結果が今の現状の生活なんだと思う。

だから、それがすごいとかすごくないとかそういう次元の話ではなく、行動の結果そうなっただけ、目についたところに対して、解決するための行動をしてきた。ただそれだけなのではないかなと思う。

 

そう考えると今の僕の現状においては十分満足できる。

海があって山があって、そんな中で毎日海を見ながら仕事をして、休みの日にはコーヒーを焙煎し、好きな時にコーヒーを飲み。畑に行って適当に野菜を育てて、収穫できたら食べる、うまくいかなかったらまあえっか。

そんな感じでゆるく生活するということに重点を置いて生きてきた。競争や無理をするということを一切やめて生活する。

それが何よりの人生における大事な点だと思って10年ぐらい生きてきた。

 

よく考えると誰かのためにという点が欠如している気がする。

それだけは全くと言っていいほど行動指針になっていない。

先の同僚たちのことを考えると彼らは困っている人を助けたい。その一心から行動を起こし、最終的に自分の歩みたい方向と他者への想いが合致し、自分のやりたいことをやっている。

 

そうか他人への思いやりということが人生において重要なのではないかと感じる。

そこが周囲からの応援を得られるかどうかなのか。

 

なるほどようやく合点がいった。

僕も39年生きてきて、人のお世話になりっぱなしの時間をこれまで過ごしてきたけど、これからは世のため、人のためになることを一つでもやってみよう。

そう言えば39歳になったら、「サンキューの年」ってことでどんどんお世話になった人たちに何かお礼の印をしたいと思っていたのだった。

87歳で死ぬ予定にしているので、これからの48年はずっとサンキューを伝えて、世のため・人のために少しずつでも行動していける人生にしていこう。