いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

独り言はあっちこっち行く

毎日同じことしていると安定する。

ここのところほぼ毎日同じような生活をしている。

夜22時ぐらいに寝て、5時ぐらいに起きて。

ウンコして、書いて、メシ食って、仕事行って、メシ食って、風呂入って寝る。

同じような毎日を送っていることでちょっとは飽きるかなと思っているけど、中々飽きない。

なんでだろうか?同じことをするのが基本的には嫌いで、続くと飽きる傾向にある。

いや続いても飽きないか。実はそんなに飽き性ではないのかもしれない。

飽き性ではないかもしれないと思う要因の一つに、自分で弁当を作っていた時、三カ月以上毎日同じ弁当だったことがある。それでもその当時はなんとも感じなかった。むしろどうやったら同じ弁当でも美味しく出来るのか、見栄えが良くなるのかと言うところに焦点を置いていたので、内容が同じであると言うことに目が向かなかったのかもしれないけど。

僕にとっての飽き性と言うのは続くことが嫌とかではなくて、見切りが早いだけで、なんでもすぐに飽きてしまうと言うのではないようだ。

だからこれからは飽き性ですというのではなくて、見切りが早いですと言った方が適切かもしれない。

見切りが早すぎてもちろん損をしていることもたくさんあるかもしれない。でもなんとなく、これは続けてもなと思った直感を大事にした方が良いなとも思っている。

 

むしろ直感を大事にして生きてきたから今があるような気がする。

 

直感って別に優れている訳ではないけど、それでも無駄に時間かけて同じけつろんになるんだったら少しでも早い方が良いと思っている。

あんまり熟考することがない。そうでもないのかな。

今現在実は次にどんな仕事をしようかと考えている。

今の仕事を早く辞めたい。

辞めたい理由はいくらでもあるけど、ここで行っても仕方がないから書かない。

どうせネガティブな言葉しか出てこないから止めておく。

今の仕事を辞めたいと思ったのは10年近く前の事、一旦辞めたけど、また同じ仕事に就いている。

それは新しい選択を僕が出来なかったからだ。

あの時別の選択を出来なかった時点で、実は先は決まっていたのかもしれない。

一度辞めた時に新しい選択を出来る可能性はいくらでもあった。

でもしなかった。過去に経験のあることを選びたくなってしまった。

その辺が僕の弱さで、ちょっとした冒険しかできない。

とりあえずその時した僕の選択としては仕事を変えるのでなくて、住む場所を変えると言う選択だった。

その選択をしてから住む場所を変えることが何度か続いている。

職ではなくて、住む場所を変える方が楽だし、変化も少ないような気がしている。

その場所に根付いて、人とのつながりを蓄積していくことが良いようにも言われているけど、全くそんなこと考えたこともない。

 

全くまた話が変わるけど、今日の文章を書いていて思ったのは、

食には全く興味がないということ。

食事に関しては基本なんでもいい。美味しかったら。

そこにこだわりはないようで、肉、魚、野菜などなんでもいい。

環境に良いとか、自然の摂理とか全く気にしてない。

そこは多少悪いものが入ってようが、自分の口に合いさえすれば別になんでもいい。

気にしない。

だから高級品が食べたいとか、憧れるとかは全くない。

流行りものにも興味がない。

食にこだわりがないということが分かって、とても嬉しい。

変にお金をここで使うことがないから、別のものに使える。

ばか舌で良かった。

 

それとあと仕事に関しても実はあんまりこだわりがないみたい。

手段的に仕事を利用しているだけで、住む場所の自由さがあるからこの仕事を選択している可能性が高い。

仕事はあまり好きではないけど、どこでもできるという自由度が高いことに魅力を感じて、この仕事している可能性が高い。

そう考えると少し気が楽になった。

サラリーマンなんてやめた方が良いとか、自分のしたくない仕事をするなんて時間がもったいないと言われるけど、住む場所に自由を与えてくれると考えるとそれはそれでいいのではないかと思っている。

仕事も住む場所もどちらも自由って僕にとっては望みが高すぎるのかもしれない。

いつかそうなれるといいのかと思うけど、今のところ何がいいのか全く思いつかない。

 

まとめると僕は実は現状に結構満足している。

そんな感じがする。

ここでも否定的なことを書くことが減ったように思う。

それがまずすごいことだと思っている。

前書いていたブログでは書くとなると愚痴しか書いてなかった。

それだと全然続かなかった。毎日書こうと思ていたけど、内容が内容だけに書くと結局は嫌な気分になるから書いてなかった。文章に気持ちを込めすぎていたのだと思う。

今は全く文章に気持ちを込めていない。

気持ちを込めていないと言うとちょっと語弊があるかもしれないけど、重みを出さないようにしているつもり。

そんなことするとしんどくなるから。

僕のしんどくなるポイントとしては重みなんだと思う。

重みって時には大事だけど、そんなしょっちゅう使うことでもない。

使いすぎると身体が重くなって身動きが取れなくなるのではないかと思うし、以前はそうだった。ノートに書くのもめちゃくちゃに重み載せてた。

それではいかんと思う。疲れる。

心を費やしすぎたのだと思う。

坐禅でも心を費やさないと言っているから、基本的には心費やすような行動は避けた方が良いんだと思う。心を費やさないのが習慣的になってくると生活が軽やかに楽になるんだろうなと思う。

もちろん坐禅の目指す方向性としては日常生活を楽にすることではないので、考え方としては間違っているかもしれないけど、坐禅からヒントを得るという点では僕にとっては役に立っている。

 

そう言えば坐禅最近してないな。

一時期は結構ハマって毎日やっていたけど、高尚すぎて僕には続かない。もうちょっと適当なぐらいが僕にとっては良いのだと思う。

格式が高く感じる。もちろん仏のやっていたことはどんなことだったんだろうということを感じるためのものだから、高尚なのは当然だし、格式が高くなるのも当然。でもそれだと僕は続かないので、今は寝床体操と操体法の基本体操で結構テキトーにやっている。

僕にはテキトーが適当なんだと思う。

 

大丈夫、きっと上手くいくよ。