いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

理由が大事になってきている

僕が勝手にそう思っているのかわからないけど、最近やたらと物事に理由を求められていることが多いように思う。むしろ理由がないものには価値がないようにすら言われているような風潮があるような。理由を明確に言えないのにそれはやる意味があるのかとか。物それ自体よりも理由が大いにあることがもてはやされている。勝手な印象だけど。それがちょっと嫌になっている。元々僕は衝動的な人間なので余計にそう感じているのかもしれない。

 

でも実際のところそこまで物事全部に理由なんかあるんかな?何のために?問いすぎているような気がする。たぶんそんなにないと思うけどな、理由って。だれがここまで大事だと言い出したのか。まあ確かに理由があった方がなんかカッコイイし、やってる感はでる。人に説明する時も説明しやすいのも事実。特に商品を売る時には開発のヒストリーを重要視するようなものも多くあって、そこが重要だと言われているのをなんか聞いたことがある気がする。

それって逆に言うと見た重視の中身軽視ちゃうんかなと思ってしまう。壮大な理由をつけてしまうと張りぼて感出てしまって、中身とのギャップでがっかり感でてしまうんちゃうかな。重要視すべきはやっぱり中身だと思う。そこに見た目というか理由がちょっと添えてあることが重要なんじゃないかな。

 

それに僕の行動で考えた時にも日頃からそこまで明確な理由を持って行動しているかと言われるとそうでもない。というかほとんどない。

あーええなと思ってやることの方が多い。どちらかというと衝動的。衝動的から始まった。理由があとからつい来るということはよくある。

このブログも実際はそう。誰かの何かを見て書いた方がいいなと思って。で書いている途中になんか脳のために良さそうやなと感じて。じゃあそのつもりで書いてみようとか。作家目指すのってなんか面白そうやから、自称作家として書いて、ほんまに作家になれるといいなとか。ほんまにしょうもないことばっかりやし、理由自体も後付けのやつも大したことないかもしれない。

でも続けているとそこから何か変化が生まれる可能性はあるかもしれないし、続けた結果出てきた理由だと説得力があるし、深みも生まれるんじゃないかなと思う。

理由ありきだと、しりすぼみ感が否めない。そこを重視しちゃうと物自体にそこまで深みがないから、そこを見抜かれてしまう。それに成長もあんまりないように感じる。理由が完成した時点でその物自体はゴールを迎えているような気がするから。

 

あと理由が嫌なところとしては、それで行動を抑制してしまっているところがあるんじゃないかなと思うから。理由を気にしすぎるがために一瞬躊躇してします。その一瞬の躊躇がそのまま行動しない原因になる。

要するに頭でっかちということになるのかな。やってみてわかることの方が圧倒的に多いのに、勝手に頭でシュミレーションしてそれはどうかなってことになってやらない。頭の中でわかることってそれまでの自分の経験での判断でしかないから、果たしてそれが良いのか悪いのかなんてわからない。そんなのもったいないと思う。

そうもったいないんですよ。理由を殊更に強調するのは。

やらない選択肢を選択しやすくするために理由を求めているのではないかとすら感じる。

理由や意味ってそこまで大事なんかな。

やりたいと思って、やってみて良かった。じゃあもうちょっとやってみよう。やってみたらこんなことがわかったとか。やってみてこういう変化があった。

だからこれを続けていこうとなるんじゃないかな。

振り返ってみて初めて理由づけできるんじゃないかな。

やる前から全てのことに理由づけするのは難しい。

もし理由があるとするなら、それは無理矢理誰かが勝手にこじつけでつけた理由でしかないからあんまり気にしなくてもいいような気がする。

 

大丈夫、きっとうまいくいよ。