最近はヨガの行く前と行ったあとにしか書いてないけど、久しぶりに特に理由もなく書きたいと思ったから今日は書く。
タイトル通りにもやもやしているから。
そんな時は書いといた方がちょっとはましになるというのを過去の経験で学んだ。
とは言え、劇的な効用があるわけではなく、じんわりと効いてくる程度で、どちらかというと漢方薬的な感じの効果かもしれない。
じんわりの方が依存性も少なくていいのかもしれない。
書きたくて書きたくてという時期もあったけど、やっぱりそんなときは心が落ち着いておらず、とりあえずその心の状態を安定させるためにキーボードを叩いていた。
それが悪いわけではないけど、心のが落ち着いていない状態が日常的にあるというのは幸福かそうでないかというと、後者だと思う。
だから書くこと日常にするのは僕にとってはあまり良い日々を送れていないということの裏返しなのかもしれない。
僕だけに限らず仕事でもないのに、誰からも頼まれもしないのにひたすら書くというのはある種の依存であり、異常な状態なのかもしれない。
それでも今日は書きたい。
だってもやもやしているから。
もやもやの原因を探ったり、解決方法を考え出すのが一番いいのかもしれないけど、「只管打鍵」が僕の場合はいいのだということを以前編み出している。
別に改めて説明の必要もないし、誰も説明を求めていない自作の言葉ではある「只管打鍵」読んで字の如くひたすらキーボードを叩くということで、坐禅の言葉「只管打坐」から着想を得ている。
心の余裕がない時こそ、座りましょうと。座禅では言われるらしい。特に何かを解決する訳でも、何かを生み出す効用がある訳でもないけど、座りましょうと。
そもそもがブッダさんが編み出した方法で、俗世の人間が何かを得るためにやるものではなく、儀式的なレベルの神々しいという表現があっているかわからないけど、その時ブッダさんが感じたことを感じられるかもしれない体験のことらしい。たぶん。
だから座禅は何かの目的を目掛けてやるのではなく、神秘体験としてとらえた方が良いみたい。それなのに俗世の人間と来たら何かを得ようとして坐禅をやろうとする。クリエイティブには座禅が必要だみたいに。そんなものではないはずなのに。
坐禅は神秘体験だけど、打鍵はそんな高尚なものではい。
打鍵はそれこそ心を無にするためのもので、低俗な人間が行う行為だと思う。
それでも一時的にでも苦から逃れたいという人に対して存在する救済的な行動。
ただし、ただただ救済を口を開けて餌を待つようなものではなく、あくまで自発的に行動して得られるものということに良さがある。
何も自ら行動もしないのに、ただただ手を合わせるだけで得られるような体験は依存生むだけで、百害あって一利なしだと思う。
確かに人によっては打鍵が困難な人もいるのですべての人にそう思っているわけではないけど、それでも行動に移せるなら打鍵してほしい。
そう勧めるだけの打鍵の効果があると僕には確信があるから。
打鍵している間だけは余計なことを考える隙がない。
いかに早く、正確に打鍵するのかということしかほぼ考えていない。
そうすると自然と無になるというのか。
日常の嫌事が全く頭に浮かんでこない。
全くというのは誇張表現のように思うかもしれないが、「只管打鍵」状態に入ると本当にそうなる。
ただただ画面に、キーボードに意識が集中し、早く・正確にこの白いキャンバスに文字を埋め尽くしたいという衝動に駆られる。
衝動って言ってしまった時点でもはや心が落ち着いているのか、いないのかよくわからないけど、それでも、一瞬でも日常からは離れられる。
日常から離れるというただ一点のことを叶えるには他とない素晴らしい行法であると自負している。
だからみんな「只管打鍵」を行じて欲しい。
そんな風に僕は思います。
で、今日は何を書きたかったのか?
という状態になれるのです。
今日も最後までありがとうございました。
大丈夫きっと上手くいくよ。