いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

ヨガイントラコース4日目に向かう

今週木曜日のワクチンショックで今日受けられるか微妙でしたが、なんとか回復しました。

しかも嫌いな薬の力を借りて。

薬が無ければ未だに回復してなかったかもしれない。

熱と全身の関節痛と頭痛でのたうち回ってましたがなんとか復帰。

今日の日を無事に迎えることが出来るかどうか非常に微妙なところでしたがなんとかなりました。

薬の力って時には偉大ですね。

目には目を的な感じで、異物には異物をということで良くなったのかもしれません。

ここ数年あれほど忌避していた薬物を飲用する機会が増えているかもしれません。

それもこれも免疫の低下から来るものでしょうか?

どうしたもんかと思いつつも一度手にしたら最後、便利なものから離れることは難しいのかもしれません。

それが人類の叡智から作られたものであったとしても、人類皆に適切に作用するかどうかは結局作った側の意図とは異なる方向に向かうことだって容易あります。

作者の手を離れたものを使用者がどう使おうと、それは作者の意図するところではないのです。使用者の自由なのです。

どれだけ良いものであっても解釈が異なれば全く違うものに変わることだってあります。

それを前提として物を作ることなどできないし、作者は良かれと思って作るのであってそこまで想像が及ばないと思います。

なんの話かわからなくなってきたけど、やがてだってそうじゃないかなと思うんです。

正直ヨガが生まれた歴史はまだあまり勉強しておらず、どういった目的で作られたのかも知りませんが。

何かしらのツールであって、ヨガ自体に意味があるとは思いません。

何かを達成するその過程の中にヨガがあるんだと思うんです。

だから創始者から直接聞けない今となってはヨガ実践者が勝手に解釈するしか方法はないと思います。

結局宗教だってそうで。

時の為政者によって良いように解釈され、利用されていることを見ることがありますから、ヨガも同じような類だと僕は思っています。

宗教としてヨガをやっていない僕としてはその辺は特に気にしないのですが、気になる人はその辺りを知った上で実践したいと思うのでしょうね。

幸い僕は特定の宗教を信仰していないので、正月になればどことは決めずに神社に行くし、見たい建物があれば寺にも行きます。

洗礼は受けてませんが巡礼の道も歩きました。

結局はその個人がどのように捉えてどのように使うかということが大事なのであって、宗教そのものやヨガそのものに意味はないと今のところ思っています。

ただ数千年も消えずに残っているということは何かしら良いとされるものがあるからこそ、宗教を超えて世界に伝播していったのだと思うので、それが何かを知り、僕は健康のためにヨガを実践出来ればと思っています。

自然に感謝をするということが大前提にはあるので、宗派としては自然教ということになるのかもしれません。

人間が作った規則ではなく、自然の規則・法則に出来るだけに沿って暮らすことができるならすごく幸せになれるのになと思っています。

その一つの方法としてヨガもあるのではと妄想している所存です。