いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

先々のこと考えると疲れるから止めておこう。

久しぶりにダラダラと書きたくなった。

人と話をするのはいつまで経っても苦手なのは変わらない。

周囲からはそんなことはないんじゃないかと言われることもある。

そりゃそうだと思う。

人生時間が経てばなんとか無理してやれば苦手ではあるが、出来なくもないこともある。

ただ無理をして人と話をしているだけで、好き好んで人と話をしている訳ではない。

まあたまには楽しく会話を交わしていることもあるかもしれない。

でもそれは話をしやすい人としているだけであって、誰彼構わず話をするわけではない。

それに人と話をしていても長くは続かない。

というか結構早めに疲れてくる。

それは仲の良い友達でも同じだ。

最初は楽しくてもだんだんと早く帰りたくなってくる。

帰るころには逆にまだ帰りたくないなとなるけど、それは錯覚で二件目になんて行きたくない。

そんなことしたらただただ疲れるだけだ。

 

まあ最近はそんなこともなくなったな。

どんどんと自分の思うような環境になってきている。

それもまた凄いことだなと思う。

人との付き合いは本当に減った。

煩わしさしかなかったからそれで良かった。

でも本当に仲の良い友達とも疎遠になったことは少し寂しい気もする。

人との付き合いをしようとすると余計な付き合いまで増える。

あれはいったい何なのか。

特定の自分の好きな人とだけ繋がっていたらそれでいいのに。

余計なものまでついてくるはなんでか。

それがなければ人付き合いを続けていても良かったけど、そうもいかない。

社会というのはそういものなのかもしれない。

そう考えると社会というものは面倒だなと思う。

 

社会性を備えているように見せて僕は全く社会性が無い。

そもそも社会性がどういうものか理解していないので、社会性を持っている訳がない。

僕の勝手な解釈では協調性に似た言葉なのかと思っている。

協調性はない。

あるように見せてない。

それももう今の会社の人たちにはばれている可能性がある。

そうなってくると誰も僕には寄ってこない。

仕方がないなと思う。

それが僕の望む環境だから。

色々な人が僕に手を差し伸べてくれる。

すごくありがたい。

でも有難い反面重くも感じる。

その差し伸べた手を握りたい時もあれば、全く握りたくない時もある。

そうただの気分屋なのである。

そんなだから人と付き合いたい時もあれば全く関わりたくない時もある。

そうなると相手に合わせるのが面倒なので、じゃあいっその事辞めておこうとなる。

でもそれでいいとも思っている。

先も行ったけど、人付き合いというのは好きな人とだけできるものではなくて、余計なものまでついてくる。

余計な者のことまで考えていると好きな人との楽しい気持ちが忽ち消えてしまう。

そんなもったいないことはない。

だったら最初からなかったことにした方が良いなと思う訳で。

そう僕はまだまだ子どもの精神しか持ち合わせていない。

でもこれは死ぬまで変わらないだろうなと思う。

今のところはそこまで困ってないので、困った時にどうするか考えようと思う。

転ばぬ先の杖も良いけど、先々のことを考えて対応するの大変だし。

今の事だけ考えて生きるようにしよう。

 

大丈夫きっと上手くいくよ。