自分では変なことを書いているいつもりはないけど、僕以外の人から見るとたぶんへんなことを書いているんだろうなと思う。
意味も通じない文章を書いているんだと思う。
それでも書きたいから仕方がない。書いていると気持ちが落ち着くから。
今日は眠い昨日も眠かった。理由はそれぞれ異なるけど、眠いというのは同じ。理由や状況は異なれど、使う言葉同じ場合がある。だからどうしたという話だけど、不思議だなと思う。
言葉は説明しているようで、実は説明しきれていない。説明の説明があって初めて意味が通じることもある。そういうものだと思う。しかも全て事細かに説明していたら、時間がいくらあっても足りない。会話でそんなことをしているとおそらく嫌われるか、誰も話をまともに聞いてもらえなくなる。
ところが文章においてはどれだけ説明をしても誰にも怒られたり、嫌われたりしない。まあそもそもが誰も見ていないものなので、当たり前と言えば当たり前なのかもしれないけど。
今こうやって書いていると言っても僕の全てを説明している訳ではない。そもそも書いていると言っても、もし仮にこの文章が紙に印刷されてこの文章を読んだ人がいたとする。書いているという状況がその読んでいる人に全て伝わることはない。その人はパソコンで書かれたのか、ワープロで書かれたのか、スマホで書かれたのか、わからない。
どこで書かれたのかもわからない。
でも「書いている」という言葉は同じ見え方。同じ意味に捉えられる。不思議だなと思う。
不思議でもないのかな。いや不思議だと思う。
だからもっと普段から注意深く物事を見た方がいいのではないかなと思ってしまう。
騙されていることが多いのでは?って思う。
深く洞察した方が騙されずに済むのでは?って思う。
でもそんなことどうでも良くて、騙されていようが、いまいが、楽しかったらいいよねと思う。
楽に楽しく行きたい。
難しいことを考えずに生きられるようになりたい。
どうしたらそんな風に生きられるのか。
そのヒントをくれる人はいないのか。
ヒントというか直接的にあなたの場合はこうですよと説明しながら、手取り足取り教えてくれる人がいないのか。
世の中はそんな人を求めているのではないかと思う。
だから簡単に騙されてしまうのだろうとも思う。
根が単純で楽に生きたいと思っている人が大半を占めると思う。
何がなんでも成功して、富と名誉が欲しい。社会的に認められたいと思っている人と言うのはそんなに多くないのだろうなと思う。
だから目立つし、憧れられる。
みんながみんな向上心丸出しのイケイケな社会であれば、目立つ訳がない。
ということは世の中の大半はそんなに頑張りたくないんだと思う。
それならいっそ開き直って、頑張りませんと宣言したらいいのだけど、歴史上の人物は頑張っている人ばかりなので、そこを目指しましょうと教育されているので、頑張りませんと宣言することは苦しい。恥ずかしいことと認定されている。
楽はしたいけど、恥ずかしいことはしたくないというのが大半の人だと思う。
恥ずかしさにみんな負ける。だってかっこ悪いもん。
恥ずかしさに耐えられるようになると楽に生きられるのかな。
恥ずかしいという言葉も色々意味があるよな。
ここで言うみんなが感じてそうな恥ずかしさと言うのは、人と違うことで馬鹿にされるような気がするからという感じなのかな。
人と違うことは本来良いことなのに、目指す方向を指し示され、そこから外れることは良くない的な教育を受けたことで、どうしても違うことがしにくくなる。
違うことと言ってもファッションや音楽の趣味は人と違うというのは良しとされても、生き方や考え方は人と違うことを極端に嫌がる。
なんでなのか?
僕も多分に漏れず同じ。
月給をもらい、会社の方針に合わせて仕事をする。なので、決められた就業時間で、決められた制服を来て、決められた休日を取る。
全て決められている。窮屈以外の何ものでもないのだけど、そこは感覚を麻痺させてこういうものだと自ら洗脳して毎日を過ごしている。
これでいいのかとふと思う時もある。他人のために自分の時間を使って、給料をもらっている。楽と言えば楽なのかもしれない。全てが決められているから。
どちらを選ぶのがいいかとかそういうのじゃなくて、自分で決める方があってるなら変えた方がいいし、他人に決めてもらった方があってるならそのままでいい。
ただそれだけなのだろうとなと思う。
年齢が30後半になろうと僕の場合は20代のころとほとんど悩んでいることは変わっていない。成長がないなと思う。
でもそうやって燻って、同じところをぐるぐるしている人は多いんじゃないかなと思っている。他の人はどうやって生きているのかと最近すごく気になってきた。
今までは他人がどう生きているか興味なかったけど、最近は今まで以上に困っているせいなのか。他人の生き方がすごく気になっている。参考にしたいから。
参考になるような事例があまりない。
というか僕みたいな凡人が事例を世に発表する訳ないかとも思う。
事例を発表しまくることができるともっと安心できるような気がする。
たぶん同じようなことで悩んでいるんだと思う。
そう思いつつも年齢を重ねるにつれて悩みを公表するということが難しくなってくる。恥ずかしさの壁がまたやってくる。恥ずかしさの壁は一生僕に付きまとってくるのかな。それもまた一つのクセというのか、特徴というのか仕方ないのかな。
生まれつきそういう体質なのかもしれない。
平気でやっているつもりでも内心は恥ずかしさの塊で、中々一歩が踏み出せない状況が続いている。
悶々としている。一歩踏み出せばいいじゃないかと外から見ると思うのだろうけど、その一歩は果てしなくながい。自分にとっては。
やはり同じ言葉でも全く意味が異なるのだなと思う。
ようするにこの世の中は感じ方、捉え方次第でいくらでも変化するということ。
難しくもあるけど、簡単なようでもある。
大丈夫、きっとうまくいくよ。