今朝も曇天だ。
雨が降ってないだけ昨日よりましか。
起きる時間はいつもと変わりないけど、書き始めたのがいつもより1時間遅い。
1時間遅いと周囲の環境が結構変わる。
当然周囲の明るさが全然違うし、鳴かなくなったような気がしていたセミが鳴いている。
人間の動き出す音も聞こえる。
時間の経過とともに環境も変わっていると感じると不思議な感じというか、なんというか。意味はないけど、同じ場所にいて同じことをしていて同じ景色を見ているけど、起こっていることが違うというのは不思議なことだなとなんとなく思う。
昨日と今朝、片桐ユズル著「ふたつの世界を生きる 一般意味論」という本を読んでいる。
内容はよくわからないのだけど、なぜか読んでしまう。
ところどころに笑えるようなところがあったり、へーと思うこともある。
その中でも好きなところが「ノンセンスの効用」という章にある、「名前はモノそれ自体ではなく、約束にすぎないのだから、人間がつけかえることができる」という一節。
なんとなく好き。
深い意味はわかってないし、著者の思いを理解できているとも思ってないけど、確かにそうだなと思える。
すべてのものや現象は勝手に人間が名付けただけで、本来そこに名前はない。人間同士が互いにコミュニケーションを取るための手段として名付けただけで、名前自体に意味はない。
でもそこに囚われてしまう。言葉によって人はなぜかコントロールされてしまう。
というか、こうやって僕が言葉を書いているのも約束が存在するからこそできるのであって、「コ」「ン」「ト」「ロ」「ー」「ル」と6つの意味のない形のものが並んでも元々は意味がないけど、約束したから意味がある。
だから別にそれを使わなくても別にいい。
にもかかわらずそこに囚われてしまう。
もっと注意深く観察したり、その言葉の裏側というか全体像を確認すればいいのに表層だけ、一面だけを見て全部を知ったと思ってしまう。
それが愚かだとかは言わないし、僕もそのように判断することがほとんどなので、偉そうなことは言えないけど、言葉に、見えているものに簡単に騙されてしまうなと反省した。
だからと言って何か行動を劇的に変える訳ではないけど、そういう特徴が自分自身にあるのだなと心にとめておきたい。
ことばは面白いけど、反面危険性もはらんでいる。
一側面を捉えてあげつらうことはすごく簡単で、簡単に操ることができる。
文字だけならまだしも映像と合わさると余計に判断が難しくなる。
それが感覚にまで及んでしまえば簡単に人をだますことができる。
これからさき恐ろしい世界が待っているのだなと思った。
昔の人が警鐘を鳴らしているのに、その方向に人類は向かっているところを見ると人は都合の良い面しか見てないのが良く分かる。
たしかにテクノロジーが発展して、生活が楽になるのは嬉しいもんな。
楽に生活したいと思うのは当たり前。
自由になりたい。
不自由を感じるからこそ自由になりたい。
僕の煩悩は世の人と何ら変わりない。
これが低俗と言われるならそれも仕方がない。
でも自分を律すると言うことは中々に出来るものではない。
子どもの時から教育されていないと大人になってからではどうにもできない。
何を書いているか訳わからなくなってきたので、この辺でこの話題止める。
今日の朝は久しぶりにキョダウンが出ました。
おかげでケツがキレました。
そのために書き始めるのが遅くなったのです。
ケツがキレた後ですぐにケツを拭くと痛いし、血もつくから待機していました。
ケツアナは回復が早いのか20分ほど待っていると、血は多少ペーパーにつくものの痛みはなかったです。
一旦意味不明なこと挟み、緊張が緩和されましたので、また別の話題に移りたいと思います。
昨日ふと思い出したのですが、というか妻からの話題で巡礼の話が出まして、また行きたいなとなったのです。
20代最後の年にフランスからスペインまで歩きました。
サンティアゴデコンポステイラです。
名前合ってるのかわかりませんが、キリスト教の巡礼の道です。
キリスト教の方々がスペインにある聖地サンティアゴを目指すやつです。
僕はキリスト教ではありませんが、その聖なる道を歩かせて頂きました。
映画を見たのがきっかけでその道を歩いたのですが、最高でした。
何が最高かって道が最高でした。
すごくいい道がたくさんあるんです。
あれほどのいい道は中々ないんじゃないかな。
広大すぎず、狭すぎず、自然に溢れているけど、人工物もあり、何もないようで何かある。
そんな道です。
聖なる道だから整備されているので、いいんですよ。
あれは実際に見ないと分からないです。
写真や動画でみるだけでは伝わらないです。
僕の表現力に限界があるのはもちろんですが、キレイなだけではないんです。
何かを感じるんです。
別に不思議なパワーがある訳ではないと思うし、僕にはそういうのをキャッチする力はありませんので実際はわからないのですが、なんせすごい。
その巡礼の道をまた行ってみたいなと思う訳です。
今度は妻と行きたいなと思って、誘ったら別にいいとのことでした。
そうかみんなが同じ感覚になるわけではないのだと教えてくれました。
人によって感じ方は違うのだと。
同じ景色を見ても同じ感想などないのです。
見ているところも違うだろうし、そもそもがフィルターが違うのです。
センサーも違う。
となれば僕がどれほど感動しようが、共感しない場合もあると認識しないといけないのです。
その大事なことを忘れていました。
断わられた時は一時的にショックを受けましたが、こうやって書いていると冷静に考えることができました。
妻の一言で目が覚めました。
ありがとう妻よ。
わかっていなかったのは僕の方でした。
勘違いしやすいので注意します。
もっと注意深くものごとを見る感覚を養います。
まだまだ勉強することがたくさんあるなと日々感じます。
大丈夫、きっと上手くいくよ。