いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

人の話ちょっとは聞いておけば良かった。

悪い癖が付きつつある。

まずは2度寝。

卒業出来ていたのに最近必ず2度寝。

スッキリ目覚めることが出来ていない。

睡眠の初めはよく眠れているけど、中盤の眠りが浅い。

これがなんでやったか最早忘れてしまった。

また勉強をし直さないと。

 

もう一つは朝パソコンに向かわない。

睡眠が充実してないから、座るのがしんどくて寝転がってiPhoneでブログを書いている。

書きづらいけど、座るのしんどいよりは良いかなと思って、ゴロゴロしながら書いている。

まあこんな日もあって良いのかなと思いつつも、ダラダラしすぎている気もする。

 

あと癖ではないけど、うんこが出ない日々が続いている。

これは珍しい。大体便秘と下痢を繰り返しているのに、圧倒的便秘。

なぞ。

水分は取れているし、食物繊維もまずまず取れているし。

ストレス過多なのか?

交感神経優位で、腸の活動が弱まっているのかもしれない。

常態化しないように気をつけたい。

 

昨日ようやく気づいたことがあって、結果に悩むからストレスが大きいのだと。

結果ばかりに着目してあーだこーだと頭の中をこねくり回しているから、いつまで経っても同じところでぐるぐる回っている。

結果は良い時もあれば悪い時もある。自分の実力だけで、結果が全て決まる訳ではない。ましてや相手がある時の結果に関しては、一方だけでどうにかなるものではない。

だから結果についてウジウジやってても仕方がない。

悩むべきは結果に至るまでの行動。いわゆる準備の段階でどのようなことやったかということについて悩むと行動のしようがあるし、ウジウジ悩まないのではないかということ。

プロセスが大事だと嫌というほど言われてきたけど、僕はそれを無視して結果が良ければプロセスはなんでも良いやんと思ってきた。

でも実際はプロセスが大事だという言葉の意味としては、プロセスを見つめなさいということだった。

プロセスをしっかりと考えた上で、結果がどうなったか。

結果に関して考察できるのはプロセスでしっかりと考えた場合だけ。

結果は偶然良かったり、偶然悪くなったりすることがあるから、結果を思い悩んだとてなんの進歩もない。

プロセスを無視して、勢いでやった結果上手く行ったとしても次に繋がることは難しい。

偶然を連発するのはギャンブルと同じで、確率が低い。

そうではなくて、プロセスから結果まで見ることで、始めて次に繋がることができる。

プロセス、結果、検証という流れが生まれる。

 

ようやく分かったけど、もっと詳しく説明して欲しかったなと改めて思う。

まあ人の話を聞かずにやって来たから、仕方がないか。

プロセスを大事にしろという言葉に何も興味を示さなかったもんな。

自業自得とはまさにこれ。

まあこれからぼちぼちやったらいいか。

モノになるかどうかは気にせずぼちぼちと。

 

今日はこの辺で。

 

大丈夫、きっと上手く行くよ。

何歳でも初体験はある。

昨日はいつもと同じ布団で寝た。

それでも何回も目が覚めた。

昨日はなんだったんだろうか。

そのせいで今日は昨日以上に身体がバキバキになっている。

首から背中にかけて固まっている。

こんなに硬くなるのは初めてかも。

初体験というのは何歳になってもあるもんなんだな。

ありがたい経験だと思う。

そうでも思わないとやってられない。

最近調子がいいのか悪いのかよくわからない。

これが季節の変わり目というやつか。

中々に翻弄されている。

これでは机に向かって書く気もしない。

まあそれでもこうやってiPhoneで書けているからそれはそれでいいのかな。

なによりも書き続けるのが大事だと思っているから少々のことではへこたれない。

そんなメンタルにもなっている。

前ならすぐにやめたと思う。

この部分においては変わったようにも思う。

すぐに諦めなくなった。

書くことに関しては粘り強くなっている。

そこは凄いなと思う。

執着なのか何なのかはわからないけど、書けている。

それだけでも進歩じゃないかな。

書くために一日が始まっている嫌とかそういうレベルではない。

なんとしても続けるという気持ちが身体の底から湧いているのかもしれない。

そんな気持ちも初めてかも。

書くことを始めてから自分の変化に驚かされている。

成長しているかはわからないけど、変化はしている。

変化こそが僕の生きる上では重要なこととされているので、素晴らしいと思う。

 

じゃあ今日はこの辺で。

 

大丈夫、きっと上手くいくよ。

硬い床でも寝れるような身体になりたい。

昨日早く寝たのにすごく眠い。

たぶん中途覚醒が多かったせいかと思う。

昨日は久しぶりにヨガマットで寝てみた。

以前もヨガマットで寝ている時期があってその時は中々良かったから、今回もいいのではないかと思ってやってみた。

あと、今使っているマットレスが柔らかすぎるような気がして、硬い方が自分に合っているのではないかと言うのもあって試してみた。

寝始めは最高。

仰向けで寝た瞬間に身体がグーッと伸ばされて背中がめちゃくちゃ気持ち良かった。

これはいいのではないかと思ったけど、横向きで目覚めた。

右肩を下にしていたけど、肩が痛くて目が覚めた。

痛いと言ってもすぐに解消される程度の痛みではあったけど、それでも目が覚めた。

その後も何度か目が覚めた。

そのせいで今日は眠い。

起床後の身体の痛さはないけど、眠さはある。

どちらを取るかという感じもするけど、やっぱり中途覚醒が多い眠りは質の悪い眠りだと思うので辞めようと思う。

でも結果わかったことは、柔らかいものより硬いマットレスの方が身体には合っていると言うこと。

硬すぎないマットレスを探していきたい。

ただ今はお金がないので要検討。

 

何をするにもお金がかかる。

質を上げようとするとどうしてもお金がかかる。

坂口恭平さんは生活の質を上げるのではなくて、自分の質を上げろと確か言っていた。

自分の質を高めるためにはどうしたらいいのか。

まず今回の場合で考えると、マットレスを良いものに変えるのではなくてどんなマットレスであっても熟睡できる身体を作るということか。

果たしてそんなことが可能なのか。

それよりもむしろマットレスの質を下げて、安めの硬い布団で寝ると言うのが良い方法ではないかと思う。

但し巷では柔らかい布団の方が良しとされているため、所謂せんべい布団と言うのはもうないのかもしれない。

お値段以上ニトリに行ってもそんなものは置いてなかった。

じゃあどうするか、硬い床でも熟睡できると言うことは硬い床に反発しないしなやかな身体を作り上げると言うことか。

たしかに身体の柔軟性は少ないように思う。

身体の表面は柔らかいが、深部になると硬い部分が多いように思う。

そう言った部分を徐々に柔らかくしていことから始めよう。

そうするとなると身体の構造を理解する必要があるかもしれない。

なるほど。

今回やるべきこととしては身体の構造を理解し、どのようにしてしなやかな身体を獲得していくことができるのかというミッションということか。

よく理解できた。

では身体の勉強をまた始めてみようと思う。

まずは身体の構造と言うことは解剖学を勉強していこう。

身体がどのような仕組みで出来ているかと言うことを理解できなければ、柔軟性を高めるとかそんな話にはならない。

小手先の方法では所詮上手く行かないというのは最早当たり前のこと。

どれほど小手先のテクニックを学ぶことに投資したことか。そんなものではリターンは全く返ってこない。

深く学ぶことこそが本当の学びであると思う。しらんけど。

とりあえず解剖学について学んでいくことにしよう。

そして柔軟な身体を手に入れ、どのような床面でも熟睡できる身体を獲得していく。

それが健康な身体を獲得していくことでもある。

楽しみになってきた。

どのような学び方がいいのかはまだわかってないけど、とりあえず今日はこの辺で。

 

大丈夫、きっと上手くいくよ。

こんな風に自由にテキトーに書けなくなったらどうしようとたまに思う。

昨日は朝結構雨が降ったかと思うと午前中の内にしっかりと晴れて、夏が戻ってきたかと思うぐらいにしっかりと暑かった。

久しぶりにエアコンも活躍した。

まだ暑い。

やっぱり彼岸まではしっかりと暑いのだなと感じる。

昔の人は日々の暮らしをしっかりと観察していたのだなと思う。

気候が生き死に大きく関与してたからかな。

今だと少々雨が降ろうがそんなに気にしないし、暑くても何とかなる。

植物を育てている人も少ないから、天候が多少不順でも気にならない。

それが良いのか悪いのかはわからないけど、自然から離れているのは間違いない。

それでも生きて行けるんだから別にいいよなとも思う。

殊更に僕が何か発信しなくても世の中の多くの人がそんな感じの事言っている。

土との距離が遠くなっている。

そんな感じのことを坂口恭平さんが次に出す本には書いてあるのかな。

noteで既に掲載されているみたいだけど、読んでないので本が楽しみ。

最近SNS等で発信されている方の基礎になっていることが多いのかわからないけど、僕が目にする人は結構読んでいると言う「ウォールデン 森の生活」を昨日図書館で借りた。

まだ読み始めて数ページだけど面白そうな感じ。

読んだのは始めたでたけど、似たような文章を読んだことがある気がする。

多分誰かが引用なり、参考にしてどこかで新たに文章化したのを読んだのだろう。

そうやって人は文章を書いていることが多いのかな。

やっぱり全くのオリジナルなど存在しないのだなと思う。

そう思うと安心する。

僕はオリジナリティがまずないと思っているけど、他に書いている人もそうなのかと思うと安心する。

自分の中から湧き上がってくる思いなんかも特にないけど、それが当たり前かと思うとまた書けそう。

他の人も一定の学習期間を終えてからの書く作業と言うことか。

それならだれでも同じやな。

視点が異なるだけで、とりあえずインプットから始まっている。

じゃあ僕も同じ流れで行けばいいかと思える。

人の書き方を意識したことがなかったし、書いているところを見たことがなかったのでどうやっているのか不思議だったけど、わかりました。

日々生活して、疑問に思ったり、気になったことと、外から得る知識などを混ぜ合わせて、そこから自らが考えることを自らが持っている言葉で文章を書いているのか。

その配合が違うから人と違う文章が書けると言うことか。

納得しました。

それなら僕もできるし、もうしている。

というか誰でもやっていることだからそんな難しいことではないなと思う。

日々やっている。

会話の中でもやっている。

当たり前のことをさも大層に語っているだけだと思った。

良い文章を書く人が偉いっぽい感じになっているけど。

やっていることは一緒で内容が違うだけ。

恭平さんぽく言えば、ウンコの出し方が違うだけ。

それだけの話。

ウンコに上手下手はない。

とするならどんな文章でもいいから書いてみたらいい。

それをどう思うかは読み手による。という勝手な書き方でいいのではないかなと思う。

批評を気にする必要はない。

偉い人も僕もただウンコをしているに過ぎない。

そもそもがウンコに優劣をつけていること自体がおかしいのかもしれない。

たしかにウンコにも良い悪いはある。

バナナぐらいの大きさの茶色く、水にぷかっと浮かぶようなウンコがいいうんこである。と言うことは確かだけど。

 

ウンコを例にどうしても出してしまうのが良くないとは思うけど、あまりに謙遜しすぎてやらないよりいいかなと思って、例えをフランクな形にしてみました。

大層なことをしていると思う必要はないし、そう思うと途端に手が止まるからとりあえず書くでいいのかなと思う。

という風に自分に語り掛けています。

自分の言葉を自由に使うことの何が悪いのか。

自由に書けばいいではないかと思う。

誰に制限を受けている訳ではないけど、なんかそんな世の中が来たら怖いなと思って自由気ままに書いている。

僕に制限が掛かるような日が来るとしたら、もう世界は終わっていると思うけど。

でも制限される日も来るのかな。

そうなると怖い。

だから今書けるんだからどんな内容でもテキトーにたくさん書いておきたい。

特に意味のないことに関して多く書いておきたい。

1984の世界ではノートに記録を残すことすら許されてなかったわけだから、こうやって書けなくなる日もない訳ではない。

あんなディストピアはあり得ないだろうと思うけど、あり得なくもないような気が最近はする。

 

終盤意味わからん感じになったけど、「ウォールデン  森の生活」は面白そうですという感想文でした。

 

大丈夫、きっと上手くいくよ。

垂れ流しこそが上手く行く秘訣ではないか。

今日は雨か。

知らなかった。

今日は畑部で農トレをしようと思っていたけど、無理だ。

計画がいきなり狂った。

昨日の天気予報では不安定だけど降らないみたいな感じで言うし、

降水確率も午前午後共に10とか20%だったような気がするけど。

困ったなすることがない。

 

そんな時はひたすらに無駄に文字を書くと言うことをお勧めする。

何もない時だからこそ書く。

何かすることがあるなら書かなくてもいいかもしれない。

だってやることがあるんだから、それをやればいい。

でも今日の僕にはもはや書くことしか残されていない。

ただ書くだけ。

と言ってもそんなに書くこともないから、今日も大したことを書かない。

ただ垂れ流すだけの文章になると思う。

どうせ読まれてないので、それでいい。

ただ垂れ流すというのは案外気持ちがいいものだ。

流れに任せる。

流すという行為は積極的と見せかけて、勝手に流れているのをあたかも流しているように見せるだけの完全な受け身に他ならない。

かなり消極的な行為だと思っている。

だから今から書くことは敢えて僕が書こうとしている訳ではなくて、思考とか言葉が勝手に頭から垂れ流れているだけで、意図的に書こうとはしてないということをご了承頂ければと思う。

意図が入ると身体は緊張する。

緊張すると身体が固まって身動きが取れない。

動きやすいように身体を持って行くだけで、身体は自然と動き出す。

そう歩く時と同じような感じ。

歩こうと思わなくても自然と動き出したい感じが生まれたら勝手に歩き出す。

歩き出すと歩こうと思わなくても勝手に歩いている。

一歩一歩、右足を出して左足をだして、右手を振って、左手を振ってなんて考えない。勝手に歩いている。

そんな感じで書いている。

だから何の意味もない行為だと思って欲しい。

歩くと言うことに意味があるのではなくて歩くこと自体は手段でしかない。

何か目的とのところまで移動するための手段でしかない。

移動するなら別に歩かなくてもいい。

這いながら進んでもいいし、ゴロゴロと転がってもいい。

歩くという行為をただ選択しただけであって、別の手段があってもいい。

それでないといけない訳ではない。

手段で意味はない。

じゃあ書くのは何の意味があるのか。

書くことも僕にとっては特に意味はない。

だから特に何をこうしてとか考えてない。

とりあえず思い浮かぶことを適当に書いている。

だから内容はない。

非常に薄い内容でしかない。

歩くことと同じと考えると薄いも濃いもないか。

歩くことにおいて薄いと濃いがないように。

歩くことと同じだと考えるとただ書くだけでいい。

でも書くことの目的は一体何なのか。

別にこれもなさそうな気もするけど、たぶん何かある。

どこかに目的はあるかもしれないけど、今のところよくわかってない。

よくわかってないことってあとからいくらでも適当に理由をつけることができる。

そう言う意味では使い勝手がいいかもしれない。

現時点ではよくわからない、けどやっている。

たぶんなぜ山を登るのか聞かれて、そこに山があるからと答えた人は、そんなに深く考えた訳ではないんじゃないかなと思う。

ぱっと出てきた言葉がその言葉であって、もっと他に言うことあったのになと後になって後悔している可能性もある。

でもその言葉を聞いた人がかってにこれは深い言葉だと言うから、そういうことにしたのか、もしくはその言葉を放った人が権威のある人だからこの言葉は非常に深い意味を包含していると解釈されたのかもしれない。

人の言葉とはそんなものではないかと勝手に思っている。

だからテキトーに自分のいいように解釈したらいいと思う。

そんなことはないと言う人がいるかもしれないけど、昔の人が言った言葉にどんな意味があったのかは結局は創造でしかない。

そんなつもりで実は言った訳ではないと当の本人は思っている可能性だって大いにある。

周囲の捉え方一つで同じ言葉でも全く違う意味で解釈される可能性が十分にある。

 

こんな当たり前のことを今更言ってどうなるのかと思われるけど、そもそも意味のないところから出発しているので、そこに意味を求めること自体が間違っている。

前提として意味がないのに、その後に出てくる事柄に意味を求めること自体が僕はおかしいと思っている。

それはつまり前提を無視して別の地点から勝手に解釈をしてしまっているということになる。

それだとルールをあまりに無視し過ぎて余計に意味のなさないものになってくるし、むしろ陳腐でさえあると思う。

????陳腐と言う言葉がここで相応しいかはわからないけど、とりあえずそんな風に思ったからテキトーに当てはめてみた。

 

何が言いたいかと言うと何も言うことはないと言うこと。

ないこともないけど、説明をどのようにしたらいいかがわからくなってきたから、本当にテキトーに思いつく限り全力で書いている。

そんな風に書くと疲れるから辞めた方が良いとは分かっているけど、急にそういう気持ちになるのだから不思議で仕方がない。

自分とは勝手だなと思う。やる気ないところから始まって、そのままやる気ないままにテキトーに終わるのかと思いきや、急にいつの間にかやる気になっている。

しかもそれが持続するのかと思いきや急激に終わる。

その辺がまだまだ謎なんだなと思っている。

ムラがあるとは正にそのこと。

ムラがありすぎて、都市になりそうなぐらいに、ムラがある。

本来ムラは点在しているはずなのに、ムラがありすぎて困る。

まあそれが常だと思えば何ともないのだけど、まだ未だに抵抗したくなる。

そこを止めればもっと楽に生きられるのだろうとは思う。

受け入れる訳ではなくて、やはり垂れ流すではないかなと思っている。

垂れ流し続けることで、なんか変わるかな。

結局受け身やから変わらんか。

でも究極は受け身でいいのかもしれない。

始まりが受け身で終わりも受け身だとすると、間も受け身のままで行くのが良いのかも。

始まりと終わりは決まっているのに、間で違うことすると苦しむ原因になるような気がする。

ずっと受け身のままで生きられると一番楽かもしれない。

状況に感情を挟まない。

そういう状況なんだとそれだけでいい。

状況に対して事細かに判断を下すようなことをするから疲れる。

そうなんだでやってみよう。

 

ということで今日はこの辺で。

やっぱ、大丈夫、きっと上手くいくよ。と言う言葉ないとなんか寂しい。

勝手に坂口恭平教に入っているから、天からの思し召しとしてこの言葉を勝手に最後に使い続けたい。

内容関係なく、この言葉はやっぱり使うことにしよう。

そして坂口恭平教を世界に布教しよう。

考えても考えなくても結果いつも大体同じ

今日は一度目覚めてからなぜか眠れなかった。

布団の中でしばらく粘ったけど、寝れないと思ったから起きた。

時計を見たら4時すぎだった。

あまりにも早起きな気もするけど、もう週末だからいいかなと思って起きた。

最近は結構眠れている方で、日中の眠気もなくなっていた。

一時期中途覚醒にも悩まされていたけど、それもなくなっていた。

でも今日はなぜか一度目が覚めてから眠れなかった。

目が覚めても大体はすぐに寝れるけど、今日はだめだった。

まあそんな日もあるわと思って諦めて起きることにした。

 

窓の外は真っ暗で、何も見えない。

曇っているからか星すら見えない。

こんなにも真っ暗の中で起きていることはあまりない。

そんな中でも虫は一生懸命鳴いている。

夜行性だからか。

一日中鳴いてたら休む暇ないもんな。そんなことしたら死んじゃう。

 

書くことに関してまた坂口恭平さんが言ってること読んだけど、忘れてしまった。

なるほどなと思ったけどすぐ忘れる。

なるほどなって思うのってあんまりいいことないんかな。

今までも文章読んだり、話聞いたりしている時になるほどなと思うこと色々あったけど、あんまり記憶に残ってない。

なるほどなって記憶に残すのにはあまりいい言葉ではないのかな。

恭平さんの言葉が思い出せなくて悲しい。

良いこと書いてたような気がするけど。

 

最近は書くことに関しては特にテーマを設けていない。

元々設けていないけど、なんか目的があった方が良いかなとか思って、睡眠について書いて、引き続いて腸内環境について書こうかななんて思ってたらしんどくなった辞めた。

何か目的を持って書くというのが向いてないのかもしれない。

その時々の心情に任せてテキトーに書くのが一番向いている。

何しろ誰かのために書いている訳ではないので、テキトーに書くのが一番いい。

気持ちが良ければまずそれでオッケーなので、書くこと、手を動かし続けることが一番いいと思っている。

手を動かすと頭の中がだんだんとクリアになってくる。

ならない時もあるけど、手を動かすといい感じになるような気がする。

手を動かすことによって何かが頭の中で起きているのだと思う。

これが僕の中では一番大事であって、誰かが何かを感じてくれたらいいと思って今のところ書いてない。

書いたところで僕の今の文章力では伝わらないと思うから、そこはまず置いている。

そこを意識し過ぎて手が止まることが一番怖い。

手を動かすためにやっているのだから、まずはそこは勘違いしないようにしたい。

まあ偶然何かに反応してくれて、良い思いをしてくれる人がいるならそれはラッキーだと思う。

その程度。

 

人の目を普段からかなり気にしているので、ここでだけは人の目をあまり気にしたくない。

それだったらネット上に上げなければ良いのではとも思うけど、そこはなんか寂しいからネットに上げている。

共感を求めている訳ではないけど、全く一人でやり続けるというのもなんとなく違うような気がするから、とりあえずネットに晒している。

人の目を気にするのは僕のことを直接知っている人からであって、僕のことを直接知らない人からどう思われてもいいというのがあるのかもしれない。

現実の僕はこんな性格ではない。

何も悩みが内容に振る舞っている。

あえてそうしている訳ではないけど、自然とそういった振る舞い方が身についたようだ。

それがだんだんとしんどくなってきたので、現実とは違う場所でこのように書いている。

書きだすと現実と離れた環境があることで、結構楽になっている。

現実から逃避したいのかもしれない。

それをここで仮想逃避をやっている。

そうするだけでも日々の生活をバランスを取れている。

安定剤的なものか。

書くことによって朝起きられているし、一日がスタートできている。

夜眠れるのも、朝書くという行為をするために大体毎日同じ時間眠れている。

書く時間は短いけど、書くことを軸にして生活が運営されているような気がする。

そう思うとなんだか気持ちが楽になってきた。

書くために生活が出来ているなんて、まるで作家。

金は一円ももらえてないけど、これは作家に違いない。

これほどまでに書くことに生活を費やしているなら、作家と名乗っても問題ない。

ただ現実ではこの姿とは違うので、名乗るのことはないけど。

 

何か違うことを書きたいと思っても結局同じようなところに到着する。

思考の範囲が狭いからなのか。

同じ場所を延々と走っているような気もする。

違う景色が見たいような気もするけど、結局は同じところに留まっている。

何か理由があるのかないのかわからないけど、まあいいや。

考えれば考えるほど何もかもが無駄に思えてくるからやめとく。

とりあえず書くことだけ考える。

 

今日はこの辺にしとこう。

無理にやってみる

だんだんと朝が暗い。

先週ぐらいまでは朝起きた時に空が明るかったけど、

今日は曇っているせいもあって暗い。

だんだんと朝が暗くなって、季節の変化を感じる。

季節の変化によって身体も変化しているように感じる。

季節の変わり目を今までは意識したことがないけど、少しだるい。

だるいのは暑い時からだからあんまり変わって内容にも思うけど、なんかだるい。

これは仕事に行きたくない病が出ているからかもしれない。

本当は仕事行きたくないけど、なんとかやっている。

メシを食うためにやっている。

メシのタネが他にあれば働かなくてもいいのにと思いつつズルズル働いている。

それでも10年以上続いていることに感心している。

ここ数年は今までにないぐらいに仕事に対しての熱意を失っている。

元々熱意があったのかと聞かれると怪しい部分もある。

学生時代は熱意はあったけど、就職してからそれは全て消えた。

それでもやりたい職業ではあったからなんとかやれていた。

それでもやはり気持ちは続かず、一旦仕事から離れた。

その時ほど気持ちが楽になったことはない。

別の仕事に就こうと思っていた。

それでも他にやりたい仕事がその当時なかった。

選択肢としては今の仕事しかなかったので、結局今もやっている。

継続してやれていること自体は良いのかもしれないが、気持ちはそれに反して離れていく。

こんなこともあるのかと思うけど、実際にそうだから仕方がない。

継続していれば仕事に愛着が湧いてくるなんて言う人もいたけど、決してそればかりではない。そうじゃないパターンもあるのだと自らの体験で実感した。

人それぞれだし、先人の言葉が必ずしも自分に当てはまるとは限らない。

もちろん参考にすることも大事だけど、自らの体験・体感の方がより大事なのではないかと感じている。

今は仕事に関しては情熱はなく、とりあえず無難にこなすことに一生懸命になっている。ただそれだけ。

他の人に迷惑をかけないように。

そして職場で目立たないように気配を消している。

そうやってひっそりと仕事をしている。

それが今の自分のスタイルに合っている。

ペースを極力変えない。

完全なマイペースで仕事をさせてもらっている。

内容的にはマイペースではあるけど、そもそもの仕事がしたくないという前提で考えると致し方がない。

相当な努力を強いていると僕は感じている。

やりたくないことをやっているのにそこからさらにギアを上げろと言われてもどうしようもない。

すでに最善を尽くしているのだから。

 

そんな仕事に対してなんとか行けるようにするために、どんな状況であってもまずブログを書くことにしている。

むしろそのような状況がなければブログをこれほどまでに毎日続けられていないかもしれにあ。

なんとか起きるための手段としてブログを書いている。

無理にやることによって奮い立たせているという方が正しい。

ダラダラと起きると余計に仕事に行きたくなくなるので、ブログという目的を果たすために起床することを可能にしている。

たぶんブログ辞めたら仕事も辞めると思う。

それぐらいの存在になっている。

元気になるには癒しでは無理だと昨日坂口恭平さんが言ってた。

しんどい時、辛い時というのは自律神経の働きが極端に弱まり、そのような状態の中でさらに副交感神経が優位になっているから、癒しだけだとさらに副交感神経優位になってそこから復活出来ないんだろうなと思った。

何か自発的に取り組みたくなることを設ける必要がある。周囲からサポートを受けることも大事だけど、自分の内側から何かが湧き上がってこない限り浮上出来ないと言うことかな。

僕にはそれが文章を書くことで、文章を書いていると何かよいことが頭に浮かんでくるわけではなくて、徐々にエンジンが温められて動き出す前のアイドリング状態になっている感じ。

そうするとなんとか動ける。

今の僕はこうやって無理にでもとりあえず行動をさせるきっかけがないと仕事に足が向かなくなっている。

早めに切り上げたいと思いつつも中々行動に移せない自分がもどかしい。

そこも一歩無理に動いてみてもいいのかもしれないな。

 

今日はこの辺で。