昨日は朝結構雨が降ったかと思うと午前中の内にしっかりと晴れて、夏が戻ってきたかと思うぐらいにしっかりと暑かった。
久しぶりにエアコンも活躍した。
まだ暑い。
やっぱり彼岸まではしっかりと暑いのだなと感じる。
昔の人は日々の暮らしをしっかりと観察していたのだなと思う。
気候が生き死に大きく関与してたからかな。
今だと少々雨が降ろうがそんなに気にしないし、暑くても何とかなる。
植物を育てている人も少ないから、天候が多少不順でも気にならない。
それが良いのか悪いのかはわからないけど、自然から離れているのは間違いない。
それでも生きて行けるんだから別にいいよなとも思う。
殊更に僕が何か発信しなくても世の中の多くの人がそんな感じの事言っている。
土との距離が遠くなっている。
そんな感じのことを坂口恭平さんが次に出す本には書いてあるのかな。
noteで既に掲載されているみたいだけど、読んでないので本が楽しみ。
最近SNS等で発信されている方の基礎になっていることが多いのかわからないけど、僕が目にする人は結構読んでいると言う「ウォールデン 森の生活」を昨日図書館で借りた。
まだ読み始めて数ページだけど面白そうな感じ。
読んだのは始めたでたけど、似たような文章を読んだことがある気がする。
多分誰かが引用なり、参考にしてどこかで新たに文章化したのを読んだのだろう。
そうやって人は文章を書いていることが多いのかな。
やっぱり全くのオリジナルなど存在しないのだなと思う。
そう思うと安心する。
僕はオリジナリティがまずないと思っているけど、他に書いている人もそうなのかと思うと安心する。
自分の中から湧き上がってくる思いなんかも特にないけど、それが当たり前かと思うとまた書けそう。
他の人も一定の学習期間を終えてからの書く作業と言うことか。
それならだれでも同じやな。
視点が異なるだけで、とりあえずインプットから始まっている。
じゃあ僕も同じ流れで行けばいいかと思える。
人の書き方を意識したことがなかったし、書いているところを見たことがなかったのでどうやっているのか不思議だったけど、わかりました。
日々生活して、疑問に思ったり、気になったことと、外から得る知識などを混ぜ合わせて、そこから自らが考えることを自らが持っている言葉で文章を書いているのか。
その配合が違うから人と違う文章が書けると言うことか。
納得しました。
それなら僕もできるし、もうしている。
というか誰でもやっていることだからそんな難しいことではないなと思う。
日々やっている。
会話の中でもやっている。
当たり前のことをさも大層に語っているだけだと思った。
良い文章を書く人が偉いっぽい感じになっているけど。
やっていることは一緒で内容が違うだけ。
恭平さんぽく言えば、ウンコの出し方が違うだけ。
それだけの話。
ウンコに上手下手はない。
とするならどんな文章でもいいから書いてみたらいい。
それをどう思うかは読み手による。という勝手な書き方でいいのではないかなと思う。
批評を気にする必要はない。
偉い人も僕もただウンコをしているに過ぎない。
そもそもがウンコに優劣をつけていること自体がおかしいのかもしれない。
たしかにウンコにも良い悪いはある。
バナナぐらいの大きさの茶色く、水にぷかっと浮かぶようなウンコがいいうんこである。と言うことは確かだけど。
ウンコを例にどうしても出してしまうのが良くないとは思うけど、あまりに謙遜しすぎてやらないよりいいかなと思って、例えをフランクな形にしてみました。
大層なことをしていると思う必要はないし、そう思うと途端に手が止まるからとりあえず書くでいいのかなと思う。
という風に自分に語り掛けています。
自分の言葉を自由に使うことの何が悪いのか。
自由に書けばいいではないかと思う。
誰に制限を受けている訳ではないけど、なんかそんな世の中が来たら怖いなと思って自由気ままに書いている。
僕に制限が掛かるような日が来るとしたら、もう世界は終わっていると思うけど。
でも制限される日も来るのかな。
そうなると怖い。
だから今書けるんだからどんな内容でもテキトーにたくさん書いておきたい。
特に意味のないことに関して多く書いておきたい。
1984の世界ではノートに記録を残すことすら許されてなかったわけだから、こうやって書けなくなる日もない訳ではない。
あんなディストピアはあり得ないだろうと思うけど、あり得なくもないような気が最近はする。
終盤意味わからん感じになったけど、「ウォールデン 森の生活」は面白そうですという感想文でした。
大丈夫、きっと上手くいくよ。