いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

垂れ流しこそが上手く行く秘訣ではないか。

今日は雨か。

知らなかった。

今日は畑部で農トレをしようと思っていたけど、無理だ。

計画がいきなり狂った。

昨日の天気予報では不安定だけど降らないみたいな感じで言うし、

降水確率も午前午後共に10とか20%だったような気がするけど。

困ったなすることがない。

 

そんな時はひたすらに無駄に文字を書くと言うことをお勧めする。

何もない時だからこそ書く。

何かすることがあるなら書かなくてもいいかもしれない。

だってやることがあるんだから、それをやればいい。

でも今日の僕にはもはや書くことしか残されていない。

ただ書くだけ。

と言ってもそんなに書くこともないから、今日も大したことを書かない。

ただ垂れ流すだけの文章になると思う。

どうせ読まれてないので、それでいい。

ただ垂れ流すというのは案外気持ちがいいものだ。

流れに任せる。

流すという行為は積極的と見せかけて、勝手に流れているのをあたかも流しているように見せるだけの完全な受け身に他ならない。

かなり消極的な行為だと思っている。

だから今から書くことは敢えて僕が書こうとしている訳ではなくて、思考とか言葉が勝手に頭から垂れ流れているだけで、意図的に書こうとはしてないということをご了承頂ければと思う。

意図が入ると身体は緊張する。

緊張すると身体が固まって身動きが取れない。

動きやすいように身体を持って行くだけで、身体は自然と動き出す。

そう歩く時と同じような感じ。

歩こうと思わなくても自然と動き出したい感じが生まれたら勝手に歩き出す。

歩き出すと歩こうと思わなくても勝手に歩いている。

一歩一歩、右足を出して左足をだして、右手を振って、左手を振ってなんて考えない。勝手に歩いている。

そんな感じで書いている。

だから何の意味もない行為だと思って欲しい。

歩くと言うことに意味があるのではなくて歩くこと自体は手段でしかない。

何か目的とのところまで移動するための手段でしかない。

移動するなら別に歩かなくてもいい。

這いながら進んでもいいし、ゴロゴロと転がってもいい。

歩くという行為をただ選択しただけであって、別の手段があってもいい。

それでないといけない訳ではない。

手段で意味はない。

じゃあ書くのは何の意味があるのか。

書くことも僕にとっては特に意味はない。

だから特に何をこうしてとか考えてない。

とりあえず思い浮かぶことを適当に書いている。

だから内容はない。

非常に薄い内容でしかない。

歩くことと同じと考えると薄いも濃いもないか。

歩くことにおいて薄いと濃いがないように。

歩くことと同じだと考えるとただ書くだけでいい。

でも書くことの目的は一体何なのか。

別にこれもなさそうな気もするけど、たぶん何かある。

どこかに目的はあるかもしれないけど、今のところよくわかってない。

よくわかってないことってあとからいくらでも適当に理由をつけることができる。

そう言う意味では使い勝手がいいかもしれない。

現時点ではよくわからない、けどやっている。

たぶんなぜ山を登るのか聞かれて、そこに山があるからと答えた人は、そんなに深く考えた訳ではないんじゃないかなと思う。

ぱっと出てきた言葉がその言葉であって、もっと他に言うことあったのになと後になって後悔している可能性もある。

でもその言葉を聞いた人がかってにこれは深い言葉だと言うから、そういうことにしたのか、もしくはその言葉を放った人が権威のある人だからこの言葉は非常に深い意味を包含していると解釈されたのかもしれない。

人の言葉とはそんなものではないかと勝手に思っている。

だからテキトーに自分のいいように解釈したらいいと思う。

そんなことはないと言う人がいるかもしれないけど、昔の人が言った言葉にどんな意味があったのかは結局は創造でしかない。

そんなつもりで実は言った訳ではないと当の本人は思っている可能性だって大いにある。

周囲の捉え方一つで同じ言葉でも全く違う意味で解釈される可能性が十分にある。

 

こんな当たり前のことを今更言ってどうなるのかと思われるけど、そもそも意味のないところから出発しているので、そこに意味を求めること自体が間違っている。

前提として意味がないのに、その後に出てくる事柄に意味を求めること自体が僕はおかしいと思っている。

それはつまり前提を無視して別の地点から勝手に解釈をしてしまっているということになる。

それだとルールをあまりに無視し過ぎて余計に意味のなさないものになってくるし、むしろ陳腐でさえあると思う。

????陳腐と言う言葉がここで相応しいかはわからないけど、とりあえずそんな風に思ったからテキトーに当てはめてみた。

 

何が言いたいかと言うと何も言うことはないと言うこと。

ないこともないけど、説明をどのようにしたらいいかがわからくなってきたから、本当にテキトーに思いつく限り全力で書いている。

そんな風に書くと疲れるから辞めた方が良いとは分かっているけど、急にそういう気持ちになるのだから不思議で仕方がない。

自分とは勝手だなと思う。やる気ないところから始まって、そのままやる気ないままにテキトーに終わるのかと思いきや、急にいつの間にかやる気になっている。

しかもそれが持続するのかと思いきや急激に終わる。

その辺がまだまだ謎なんだなと思っている。

ムラがあるとは正にそのこと。

ムラがありすぎて、都市になりそうなぐらいに、ムラがある。

本来ムラは点在しているはずなのに、ムラがありすぎて困る。

まあそれが常だと思えば何ともないのだけど、まだ未だに抵抗したくなる。

そこを止めればもっと楽に生きられるのだろうとは思う。

受け入れる訳ではなくて、やはり垂れ流すではないかなと思っている。

垂れ流し続けることで、なんか変わるかな。

結局受け身やから変わらんか。

でも究極は受け身でいいのかもしれない。

始まりが受け身で終わりも受け身だとすると、間も受け身のままで行くのが良いのかも。

始まりと終わりは決まっているのに、間で違うことすると苦しむ原因になるような気がする。

ずっと受け身のままで生きられると一番楽かもしれない。

状況に感情を挟まない。

そういう状況なんだとそれだけでいい。

状況に対して事細かに判断を下すようなことをするから疲れる。

そうなんだでやってみよう。

 

ということで今日はこの辺で。

やっぱ、大丈夫、きっと上手くいくよ。と言う言葉ないとなんか寂しい。

勝手に坂口恭平教に入っているから、天からの思し召しとしてこの言葉を勝手に最後に使い続けたい。

内容関係なく、この言葉はやっぱり使うことにしよう。

そして坂口恭平教を世界に布教しよう。