いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

はじめてのパリ①

はじめての海外旅行でタイへ行き、どんな内容を書いたか既に忘れましたが、とりあえず結果的には最初タイで良かったかなと思います。初心者にはおそらくお勧めできるレベルの危なさだと思います。そしてノープランで行ってもどうにかなるレベルの国だと思います。そんなに危ないことはない。まあ場所によっては危ない場所もあるかもしれないけど。

そんな経験を通じて次はどこに行こうということになりまして、その当時の職場の先輩と色々とまた話をしていた訳なんですが、その方色々行っておりまして、ヨーロッパにも行ったことがあると。ヨーロッパにはヨーロッパを縦断できる列車のパスがあるとかなんとかでそれは面白そうだとなった訳です。

ただ当時の私にはヨーロッパを縦断できるほどの時間と度胸がありませんでしたので、逡巡していたのです。

そうした時に職場の同僚が帽子職人を紹介してくれるという話になりまして、会ってみることにしました。僕はその当時帽子が大好きで帽子狂いといってもいいぐらいに服屋に入れば帽子を買い、帽子屋に行けば帽子を買いしていました。お前の頭はヤマタノオロチかというぐらいに買っていました。その帽子たちは今どこに行ったのでしょうか。僅かの残党がいるぐらいで、ほぼ消え去りました。

そんな僕に紹介しれくれた帽子職人の方は当時は有名ではないみたいだけど、腕はすごいようで。なんとフランスのコンペティション?で3位を受賞したこともある方でした。店に行かせてもらうとその人が作った帽子が色々と並んでいました。色々と話を聞かせてもらうとフランスの大会?に帽子を出すだけではなくて、実際にフランスにも何度も足を運んでいるようで、面白いよという話を聞かせてくれました。

さらにその当時何がきっかけで知り合ったか忘れましたが、パティシエとも出会い、フランスに留学するとかなんとか、フランスのはなしをそいつから聞いたかは忘れましたが、留学する時期も近々と言うことでふーんと思っていました。

ヨーロッパを意識し、フランスに関連のある二人とであり僕の気持ちは一気にフランスに傾いておりました。

その当時の僕はタイへ一度行ったけど航空券とか宿泊先の予約の仕方に一抹の不安を抱えておりました。ましてやヨーロッパさらにはフランス。やばくないですか?となぜかすごく不安を感じておりました。

そんなときでしたが、友達の誘いで行った結構危なそうな集まり?ネットワークビジネスの集団の集まりだったと思います。なんとかウェイってやつの。僕は全くやってなかったんですけど。その集まりに行ったらたまたま旅行代理店の方がいまして、これ幸いと思って色々話をしていたらすごく良い人だったので、今度旅行の相談をしに行きますとお店に行くことを約束しました。

旅行代理店ってあんまり行くことないので、緊張したけど店が入っている場所がなんとなく雑居ビル感あって余計に緊張した。あの人も実はなんとかウェイの人なんじゃないかなと思って。でもすごく気さくな方で丁寧に対応して頂き、僕が調べられる範囲のプランよりずいぶん安めの金額で航空券と宿泊先を予約してくれた。

こうやって人の出会いでなんとかフランスへと行く準備ができた。

出発前にパティシエにも連絡したら、ちょうど留学先に滞在している時期だとのことで現地で会って食事でもできるかなみたいな話だったので少し安心した。

様々な人のおかげ準備ができて、いざパリへとすごく順調でした。

というかこの旅行でトラブルらしいトラブルあったかなというぐらいです。

たぶん。

出発する前の話ですでに結構書いてしまったな。

続きはまた後日にするとします。

順を追ってやるの苦手

どうせあとでテキトーにやるのに最初はこだわりたがるんです。

そういう性格です。順を追って綺麗にやろうとしてしまうんですよね。

そら慣れてきたらそれでもいいのかもしれないけど、とりあえず最初はひたすらやってみるでいいんじゃないかなと思います。

そう思って今はやっています。でないとしんどくなってくるんですよね。だいたいでいいやんってやってるとなんとくできるんですけど、ちゃんとやろうとすると急に身体が硬くなってくるんですよね。たぶん。

だから最近はテキトーにのびのびやらせてもらっています。そうするとなんとなく上手くいっているような感じが勝手にしています。このなんとなく上手くいってるような感じってのが僕はすごく大事なんじゃないかなと最近思っていて。脳ミソをだますようなことをしないとなかなか継続するのは難しいのではないかと。現時点ではありますが。また時期が違えば違う感覚になってくるのかもしれないけど、やり始めの段階としてはなんとなく上手くいってるかも感覚が大事。たぶん。んでそこから徐々になんか変化を加えていくことがいいのかもなって。

だって最初からきつきつにやってるとしんどくないですか?まあ確かに型が何よりも優先されるようなことであれば先生に倣ってきっちりとやった方がよいんでしょうけど、ただ文章書くってだけだったらフリーの方がだいぶらく。

まあ文章を書くことに関してももちろん基本はあって、ルールもあるんだと思うけど、今のところ僕は日本語をこれまで35年間日常生活で使ってきているので、文法はそんなに間違っていないと思う。いきなり動詞から始まったり、感じ間違えすぎたりとか、語順おかしすぎるというほどの悪文ではないはず。ただ意味が通じているかは定かではない。書いている本人としては伝えているつもりでも読み手からするとなんじゃこれ文字としては読めるけど、意味わからんってことは十分にあり得る。そこは承知していますし、そういう意味での悪文で大変申し訳ないなとは思っています。

これまで書くにあたって、時系列を大事にした方がいいかなと思って自分史も冒険記も若い年代から書いてたけど、果たしてそれって意味あるんかなって今日の書き始めに思って、書きたいところから書いたらいいんと違うかなと、それに書きたいところが自分にとっての重要なところであって、それ以外はそこまで事細かに書く必要ないんじゃないとおもったんですよね。ハイライトだけ書けば十分って。

もちろん35年生きてきて必要ない時間なんてなかったとは思うけど、あんまり覚えてないこともあるし、1年1年書いてもなって思ったりしてきた訳ですよ。

でもなんかこうやって書いているとだんだんと逆の気持ちが芽生えてきて、やっぱり細かく書こうかななんて思ったりしている自分もある訳で、その時の気分に合わせて書くのが僕流かなと思ってきました。

このブログは僕流を前回にして書くものだから人がどうしているとかあんまり気にせずにやった方がいいよなと今この時間の脳内会議で決まりましたので、そうします。

物事決める時ってだいたいそうでしょ、流れで決めてしまった方がいいと思うんですよね。でないとなんか気持ちよくないんですよ。順を追ってきっちり決めていくのも確かに大事。

というか順を追って決めていくことが集団で生きる上では大事なんですよね。たぶん。

急に物事ひっくり返して決めちゃうと混乱が起きるのが集団ですよね。だから僕は苦手なのかもしれない。というか僕のペースで物事が進まないといけないみたいですね。

だってひっくり返すの好きですけど、ひっくり返されるの嫌いですからね。だから自分勝手のあまのじゃく野郎なんですけど。

こんなこと言ってるからよく周りから気を使われるんでしょうね。みんな僕の様子をめっちゃ見てきますもんね。怖いんでしょうかね。あんまり話しないから何を考えているのか良く分からないのかもしれない。特に仕事中は無表情で仕事をしていますので、ほんまにこいつなんやねんって思われていると思います。

こんな話はどうでも良くて、順を追うって話なんですけどね。

順を追ってやろうとするとどうしてもやりたいと思ったことが出てきたときに我慢しないといけなくなるんですよ。そうなるとやりたかったことが後回しになって、そうなるとどうでもよくなってくるんですよ。である時にあんなこと思ってなで終わってしまうんですよね。面白くなくなってるんですよ。旬を捉えないと僕ってやる気がでないタイプでやらなきゃを優先しちゃうとどうでも良くなって、ほんなええわと開き直ってやらなきゃに没頭した挙句。何も楽しくない状態で時間が過ぎて、脳疲労が来るということが良くありました。

だからこそやりたいが出てきたらまずやる。やるって言っても全部やりきる必要はなくて、ちょっとやる。やってみてそれが継続してやりたいことなのかどうなのかを考える。という流れが必要なんだなと一回これ挟むだけでだいぶ気分がちゃうと思うんですよね。そうこれまだ全く試したことなくて、ただの思い付きです。でも思い付きでもなく、これは坂口恭平さんが言ってた企画書を書くと言うことだなと。坂口恭平さんいうのには躁鬱病の人は尊大な気持ちになって、なんでも思いついたことをやりたくなってしまうからその気持ちを抑えるためにって言ってたような気がする。そしてその企画書は細部まで詰めてきっちりやれと。で実行はせずに置いておくと。

というのが坂口恭平さんの言ってたやり方。でも僕は躁鬱病ではないので、これが全く当てはまる訳ではないのでちょっと違うやり方をした方がいいのではないかと思って、今回の考え方に至りました。

坂口恭平さんの企画書の廉価版ですね。やりきらない。ちょっとやってみる。でも頭の中で描くのではなく、文字にするということ。そして文字にする時にこうやってブログを書くと場所とか流れとかカチッと決まってフリーに書けないからここは紙に書くと言うことですね。僕の好きな紙に。でもこれをノートに書くのはもったいないからというかまた決まったものに書くと止まりそうだから、坂口恭平さんも書いているA4の紙に書いてみようと思う。そうするとフリーにかけるし、絵もかけるからいいんじゃないかなと。そんなことを思っていた訳です。

順を追ってやるのが得意な人もいるから、そのやり方でやれるとたぶん効率的なんだろうなというのはわかっているつもり。でもそれをどうしても身体がうけつけないんですよね。思い付きで行動したいんです。

仕事でどうしてもやらなきゃを優先しないといけないことが多いからこそ余計にそう思うのかもしれない。子供の時だとそんなこと感じなかったかもしれないけど、今は社会に生きているのでどうしてもそうなってしまうのかな。

自分勝手に行動する方法を身に付けておくと生活するのが楽かもしれない。それは全部ではなくてごく一部でも十分に意味があると思う。

大丈夫、きっとうまくいくよ。

そう思いながら今日も一日を過ごしましょう。

畑は楽しい

本当は毎日畑に行きたいぐらい。別に何をしてという訳でもないけど、見に行くとなんか楽しい。小学校の時に畑みたいなところに良く遊びにいったからかもしれない。大人はあんまり畑とか原っぱに来んからかな。子供だけの遊び場みたいな感じ。そういうところでいると気持ちが落ち着くしか、なんとなくワクワクするのかもしれない。

畑は誰も指図してこない。植わっている野菜の様子を見ながらどうするか考える。この考えると言うのが大事なのかもしれない。考えるというか様子を見てどうしたら良いかを感じると言うことなのかな。これは商売じゃないからできることでもあるのかとも思う。これば農業になればそんなこと言ってられない。お金を稼がないといけないから、感じるとかぬるいこと言ってる場合じゃないんだと思う。

僕は遊びでというか楽しみだけで畑をやっているからなんとなくでいける。テキトーでいける。畑が失敗したらどうしようとか思わない。でも上手く育って欲しいという気持ちはある。失敗したらどうしようとか思ってたら楽しめない。そんなことは日常であんまりしたくないなと思う。

でも僕の場合は仕事はいつもそうで。失敗したらどうしよう、上手くいかなかったらどうしようと、常にとまではいかないけどそんなことばかりを考えてしまう。だからいつもドキドキしている。心臓に負担を掛けながら仕事をしている。僕の中で仕事とはそういうものだという認識になってしまっている。これは誰がそうさせたとかではなく僕が自然といつの間にかそういう捉え方をしてしまっている。同じ仕事をしている人でもすごく生き生きと生きがいのように仕事をしている人はたくさんいる。というか大半がそうなんじゃないかなと思う。

人に感謝される仕事だからとこんないい仕事はないと言っている人もいる。人に感謝をされるということはすごくいいことらしい。僕はあんまりそうは感じたことが無い。そこに報酬が挟まっているからかな。プロとしてはどうかと思われるかもしれないけど、報酬が無い中で感謝されるのは嬉しいなと思うけど、報酬がある中で感謝をされても僕はこれは仕事としてやっているからなとどこか冷めた目で見てしまう。感謝を示してくれている人はそんなこと関係なくて、純粋に僕に感謝を示してくれいるんだけども僕はそうではない。仕事だからその人の下に訪れてサービスを提供しているという脳ミソになっている。そこを割り切りすぎるから仕事に面白みを感じないんだと言われることもある。でもそこを上手にできないところが僕の特徴でもあると思う。

すごくはっきりと白黒つけたい。白か黒しかない。二者択一しかないなんて世界はないんだろうけどどうしてもそうしたくなってしまう。はっきりしたい。あいまいな部分が苦手である。

にも関わらずテキトーに生きていたいと思っているんだから、矛盾がすごいのは自分でも良く分かっている。その矛盾により苦しめられているのも良く分かっている。でもそうしたいんだから仕方がない。その生き方が潜在的によいと思っているのか、癖でそうなってしまっているのかはよくわからないけど。そうなっているんだからそうなんているんだと思う。

 

今日ふと思ったんですよね。大体毎日こうやってブログで文章を書いているんですけど、これは文章ではなくて膨大な自己紹介であるということに。

自分の内面をこれでもかと書きだして、僕のことをすごく知ってもらいたいと思っている。僕の内面こんなんですけどどうですか。と心の底から思っている。

自分のことを知ってもらって他人がどう思うか。そしてそれを受け入れてくれる人がどれだけいるのか。

そんなどうでもいいことを思いながらひたすらに朝から文章を書いている訳です。

気持ち悪いでしょ?キモイでしょ?

でもそれが僕だということですよね。

表現としてでてくるものにはそんなところはあまり出さないようにしているけど、実際心の中では切望しているのですよ。隠しているのですね。自分の心の内を。

でも実際に人に会う時はそんなそぶりを微塵もだしません。だってなんか恥ずかしいから。すごく僕は恥ずかしがり屋なんだと思います。あーまたここに戻ってきたな。結局同じ繰り返し。やはり僕は自分のことがすごく好きなんだと思うんですよ。だからこんなに毎日ひたすらに自分の事を垂れ流している訳です。

だからどれだけ僕の友達であろうとそろそろ飽きていると思うんですよね。

でもそんなことは関係なくて、自分の好きなことをするってそういうことだとおもうんですよ。

他人がどう思うと好きなことをし続けるということが大事だと思うんですよね。

あの人ちょっと気持ち悪いよねって周りから言われようと、自分が好きだったらやればいいんじゃないかなと。好きだからしょうがないですよね。他人から下手だねと言われたっていいじゃないかと。下手の横好きでいいじゃんと。好きこそものの上手なれで継続はやはり力ですよ。僕もこうやって毎日書いていると2000字ぐらいなんてことないと思ってきましたよ。今先ほど2000字を越えたわけですけどね。

まあそんなことで、畑は誰も僕に指図する人がいないから楽しいと言うことでした。

じゃないなそんなこと書いてない。序盤だけや。

どんなこと書こうかとイメージせずに書き始めているからどんどん脱線する。

これからはちょっとどんなこと書こうかとイメージしてみようかな。

まあいいや。とりあえず今のスタイルでどれだけ文章かけるか試してみよう。試してみることに失敗はないと何かの本に書いてあったし。徒労に終わったとしてもそれもまた人生。一興です。

大丈夫、きっとうまくいくよ。

これを思いながら今日もひたすらキーボード叩きまくりました。

これはある意味で演奏かもしれませんね。

ドラム叩くように僕はキーボードをたたきまくっているのかもしれません。

変なことつい考えがち

テキトーに生きて行きたいとか言いながら、今日文章を書く時にどうしようかななんてちょっとの間考えてしまった。何を真剣になっているのだと。真面目になっているのだと。ちょっとおかしいよと言ってやりました。だって誰も読んでない文章を、素人の僕が何を真剣に悩むことがあるのだと。何この文章て思われたらどうしようとか、かっこいいことかかねばとかそんな変なことを考えてしまうせいで、手が止まる。

誰も読んでいないのであれば別に何を書いたっていいではないかと開き治りました。今。どうしても心の中のどこかにあるプライドという貴重な貴重な鉱石がどうしても僕に働きかけてくるのです。どっかひっかかるんでしょうね。カッコよくないのにカッコよくありたい。実はカッコつけなのかもしれない。たしかにかっこいいこと言いたいとか前に書いたような気がするな。

だれかがかっこいいこと言っているとマネして書きたくなったり、羨ましくなったりしてたもんな。でもそれがあるとあの人はあんなにかっこいいこと言ってたのに、僕にはそんな言葉が思い浮かばないと言って、手が止まる。変なことを考えるとつい手がとまりがち。

まあかっこいいこと書きたい人はかっこいいこと書けばいいやんと思うようにしました。今。

かっこいいこと書いている人はもしかしたらかっこいいこと書こうと思って書いている訳ではなく、その人の中で出て来ただけの言葉かもしれない。何の気なく書いた言葉かもしれない。だから人の言葉に感銘を受けたとしても引きずる必要はないなと思いました。今。

だから僕の書いている言葉に関しても何の気なく書くだけでいいんだなと思いました。今。

だから何を書いたっていいのだなと。心の中?頭の中?に浮かぶ言葉だけをただひたすらにキーボードに打ち込む。なんてことない作業。どこにもカッコよさなど存在はしないけど。もしかしたら魂の叫びなのかもしれない。叫ぶことを心は欲しているのかかもしれない。

まあでもだからどうした。みたいなことではありますよね。僕がどう思うが、どう行動しようが世の中に全く影響ないと考えれば、特に手を止める必要はない。誹謗中傷さえしなければ何を書いたっていいんだと思えました。今。

だからやっぱりテキトーに書きます。そう人生テキトー宣言ですね。政党テキトーでも立ち上げましょうかね。テキトーに起きて、テキトーに飯食って、テキトーに働いて、テキトーに風呂入って、テキトーに寝ましょう。

そうすると僕の人生はもっと華やいだものになりそうな気がしているのです。自分にとってもっともハードルの高いことをやれば人生転換するみたいなこと誰かが言ってたような気がするんですよん。コペルニクス転換的な感じですか?たぶん違うとは思うんですけど。まあそんな感じです。別に誰かが言ってなくてもいいんです。なんかそんな感じがしたから言ってみただけで、テキトーです。

どんな真面目腐った顔で科学的根拠があること言ったところで、あとで間違っていたなんてことはあるわけで。人間の作り出した、考え出したことで絶対なんてことはありえないんだから何を言ってもいいんじゃないかと思うんです。自然の世界で起こっていることに間違いはないと思うけど、人間は間違いばかりです。だからそんな真剣になって怖い顔して、人の言った間違った言動に関して目くじらを立ててバカみたいに言い合う必要なんてないんです。どっちが言っていることも間違っている可能性があるんだから。そんなつまんないことに真剣にならずにテキトーにやったらいいのにと思うんですよね。まさに不毛ですよね。ケツ毛が不毛ならいいのですが。ケツの毛はいつだって剛毛です。こんな感じでテキトーに適当な言葉入れておけばいいんじゃないかなって思うんですよね。そうすると僕のことが怖い人だなんて思う人が現れなくなるので、あの人そういえばテキトーな人だなと思ってくれますよね。

そうなればこっちのもんですよね。誰とでも気軽にしゃべれるし、誰とでも気軽にしゃべらないことを選択することもできる。そんな自由な人間関係が形成できるともっと気楽に生きられるのになと思うんですよね。

何を言ってたって何をしてたってそんなに他人に真剣になるなよと。みんなテキトーにやってればお互いを許すこと出来るでしょと。自分のやっていることは正しいなんていう間違いを起こすから他人に対して厳しくなるんですよ。

自分のやっていることは信じてもいいけど、間違っているかもしれないという気持ちも大事だと思うんですよね。絶対はないから。じゃないと他人を攻撃しだすんですよね。

あー何を真剣に書いているんだと思いました。今。

テキトーにやりたいとか言いながら、また真剣になっている。他人の言動に真剣になっているそういうんじゃないんですよ。僕がやっていきたいことって。

そんなんじゃなくてでもなんて言ったらいいかわからない。そんな感じです。

テキトーでいいねんって言いながら中々実現できていない訳ですよ。

でも年々テキトーになっているのは確実です。

だって数年前だったら実名晒してテキトーに文章書くなんてできなかったですからね。自分のことなんてテキトーでいいって思えてるからこそだと思います。

にも関わらず、

大丈夫、きっとうまくいくよ。

ですよね。

テキトーに生きたって大丈夫だと思っているからこそテキトーでいたい。

まあなんだっていいんですよ。生きていれば。ということでした。

ガーっとやって、すぐ飽きる

これは常ですね。こうやって毎日早起きして米炊いて、湯沸かして、ブログ書いてと言うのを連日やっておったのですが、既に飽きています。いや、これは飽きているのかな。もしかしたら、疲れているのかもしれない。特に今日なんて、昨日畑でえいやこらさと畝を作ったり、切った草を動かしたり、土を作ったりと結構重労働しましたからね。だから今日は起きるのがしんどかったんかも。

それに風邪もまだすっきりしていないし、絶賛便秘中であることも影響して、腰がすごく重い。色んな要因が絡み合って朝がすっきりしなかった。そういう感情になると気持ちが冷めるのかもしれない。上手く出来ないような感じがしたら冷めてくるのかもしれない。ちょっと要注意です。

ガーっとやってってことなんですけど、この生活が始まる直前にガーっとやったのは、坂口恭平さんの動向を追いかけるということ。追いかけるったって別に後ろついて回った訳じゃなくて、ただただツイッター見て、あの人の発信するものをひたすら読むということをやった訳なんですけど。ハマるまでちょっと時間かかって、ハマったと思ったら、もう飽きかけています。別に飽きた訳でもないけど、ハマる瞬間。いわゆるピークというのがすごく短いんでしょうね。ピークを維持しようとせずに、速攻で過ぎ去るみたいです。どんだけグングンハマっていったとしてもピークに達した瞬間に冷めるみたいです。

これは今までもそうやったな、ピークを維持するってことはほとんどなかったんよな。サーフィン、スノボ、カメラ、自転車などなど。ほんでグングンハマっていって、頂上に達した瞬間に登りの何倍もの速さで下りていきます。そんな感じ。

空前の坂口恭平さんブームが過ぎ去った今、僕の下にハマろうとしているものが畑部である。今年の春頃からジワジワやってきたやつ。その当時は畑部なんて言ってなかったけど、坂口恭平さんが言ってたからマネしてみようと思って、畑部と言っているが家庭菜園のことです。どこにも畑部の部長はいませんし、部の規則もなく、部員がいるとしたら僕の妻ぐらい。あとはその畑を利用させてくれている人がある意味で顧問かな。どうしたらいいかを時々教えてくれるから。結構楽しい。家から畑までちょっと離れているから中々行けないのが悔しい。休みの日しか行けない。日が長い時は仕事終わってからちょこちょこ行っていたのだけど、最近は日が短くなって仕事がある日はいけない。だから今は休日だけ行っている。そんなに大きな畑ではないので、毎日行ったってそこまでやることはないんだけど、行きたい。野菜の成長を見ていると面白いですね。それに見るのを楽しませてもらったあとに、美味しく頂けるというのだからよすぎますよね。あと色々と畑のお世話をすることで運動不足の解消にもなる。一石三鳥という最高の作業です。

最近一番ハマっている。ハマってしまっているからちょっと心配している部分もある。ハマると嵌るんだけど、同時にハマると冷めるということもあるんですよ。だからこれが冷めないかどうかだけが心配。どうしても飽きるのが良くないと言われて育ってきたから続くかなとどこかで心配になる。そんなこと思う必要はないんだけど刷り込まれているからどうしようもない。飽きたらどうしよう冷めたらどうしよう。でも今回は1人でやっている訳ではなくて、妻と2人でやっているから今のところ大丈夫そうでもある。今までハマってきたものって大体1人でやってきたやつばっかり、大体と言うか全部そうかな。誰とも共有せずにやってきた。だから冷めたのかもしれない。上手くなったところでとか、速くなったところでとかになっちゃう。それはそれで良いのかもしれないのだけど、まあなんとなく寂しい気持ちもありますよね。

あと今までハマったやつってお金結構かかってたんですよね。初期費用掛けちゃいがちみたいなところが僕にはあって、お金かけたわりにあんまりおもしろくないやんって冷めていくんですよね。お金かけたからなんとしても続けたいなんて思ったことなくて、逆でお金かけたのに面白くないってことは、その行為自体が面白くないってことやなと思って速攻で辞めちゃうんですよね。変ですよね。なんか人と逆のことをしたくなっちゃうんです。あまのじゃくですよね。

今回の畑部はほとんどお金かかってません。畑は無料で利用させてもらってるし、自分で用意したものと言えば、鍬、移植ごて、肥料類ぐらいでしょうか。全部合わせても1万もかかってないと思います。なのに楽しいなんてすごくないですか。コスパという言葉あまり好きではないけど、こんな少額のお金で通年で楽しめるものって中々ないですよ。視覚、味覚、嗅覚、聴覚、体性感覚という五感フル稼働して楽しめる作業は数少ないですよね。あとあるとするなら料理ぐらいかな。でも料理はあんまり好きじゃない。米炊くまでは出来るけど、やっぱり切ったり炒めたりとかめんどくさいと思う。先にめんどくさいが出てくるともう続かない。飽きちゃう。だれでも簡単に出来そうでいて、実は奥が深いと言うのが僕に向いているんじゃないかなと思う。だからシンプルなものに惹かれるのだと思う。シンプルなものって一見すると近づきやすそうにみえるけど、実は違ってすごく深い。そういうの好き。たぶん。

持続可能性って、サスティナブルってすごく言われてるけど、僕は真逆です。全く持続性ない。サスティナブルとかって難しい。だから何って話なんですけどね。

大丈夫、きっとうまくいくよ。

ということで強引に今日もこの辺で終わります。

だいぶ早く寝れるようになってきたけど、最近筋トレ全くやってない。やる気しない。習慣は中々変わらないようです。筋トレの代わりに畑部やってるからいいかってことにしておく。

「僕に残された時間は限られている」

当たり前のこと書いてしまいました。誰でもそうですよね。分かってます。でも、一瞬えっ?ってなりませんでしたか?もう死ぬん?みたいな。残された時間は限られていると文字にすると余命幾ばくも無いみたいな印象ありますよね。全くそんなことはないんですが、まあいつ死ぬかはわからんってことですよね。20代はこの「いつ死ぬかわからんやん」って言葉がめちゃくちゃ口癖でした。ほんまにしょっちゅう放ってました。だってほんまにそのように思っていたからですね。何かを見てから思ったのか、何か本を読んだのかは忘れましたが、ずっと気にかけてました。なんでそんなことすんの?って友達に言われたら、だっていつ死ぬかわからんやんって説明してました。説明のようであって説明でない。今考えると行為に対しての理由がわからなかったので、思いついた最適解というか端的で相手にこれ以上質問させないようにするための対処法であったのかもしれないと今は思います。ただめんどかっただけの言葉です。

まあタイトルに触れる訳ですが、時間は確かに限られていますよね。毎日こうやってブログを書く時間だって限られている訳なんですよ。どうにか捻出している訳ではないのですが、あえて時間を作ってこうやって文章を書いています。夜書くのはダラダラして中々書けないし、テレビやったりなんだりで集中削がれるんですよね。そんなに集中して書いている文章ではないけど、気が散ると何を書くのか忘れたり、流れがそもそもないんで楽しくないというか。

んで今は、朝5時もしくは5時前ぐらいに起きて、土鍋でご飯を炊き、南部鉄器の鉄瓶で湯を沸かすということをやってからブログを書くようにしています。土鍋とか南部鉄器とか書いているとすごくこだわりがあるように思いますが、これどっちも結婚祝いにもらったやつです。

https://www.instagram.com/p/CGQsY1mnADk/

土鍋での米炊き始めました。昨日から。これは今日の写真。新しい日課になりました。#土鍋 #土鍋ごはん #白米#頂き物 #南部鉄器 #鉄瓶 #日課 #cook #坂口恭平

 

めちゃいいんですよね。炊飯器とか電気ポットの電気かつ自動でやるんじゃなくて、ガスを使って湯気の感じとか見ながら、時間はかってやるみたいなのが。すごく贅沢です。人生における一番の時間は敢えて時間をかけてする行為ってことだと思います。というかこれ誰かがたぶん言ってたやつただパクってるだけだと思うんですけど。最近そう思うんですよね。自分の時間を削ってやる行為ですから一番贅沢ですよね。だって自分の時間=命でしょ?確かに時間=お金ということは昔から言われてます。でも命は限りがあるもの。そして時間も限りがあるもの。なので命=時間。まあこれもたしか本に書いてやつをパクってます。だいたいパクってます。だってパクったやつからしか自分の言葉出てこないから。全くオリジナルなんてありえないですからね。でもパクったって堂々と言っておかないと、これパクったやつやんってあとから言われるのも嫌やしね。

そう僕は毎日贅沢をしているんです。それは浪費ということじゃないですよ。お金はそんなに潤沢にあるわけではないですから。普通の給料しかもらってませんから。それに土鍋でやってるからってそんなにお金かかってるわけでもないし。しかも自分で買った土鍋でも鉄瓶でもないですから。貰いものってほんとうにありがたいですよね。僕の人生貰い物で成り立っている人生だと言っても過言ではないぐらいに貰ってます。ほんとうにありがたいですよね。たぶん心の中でずっと思っているんでしょうね。誰か何かくれへんかなって。根っからの物乞いやろうかもしれません。みんなほんとうに色々とくれるんですよね。特に食料を頂くことが多いです。たぶん物欲しそうにしているんですよね。この乞食が!って言われても仕方ないぐらいに物貰っています。それで生きています。あと自分の命ももらったものですよね。当たり前ですけど。自分の意志で生まれてきたとは思ってないですから。そんな大それたこと言えません。貰ったというか頂いたですね。

そうなんですよ。頂いたんですよ。命を。その限られた命=時間をどうやって使うかってことで。朝の時間はご飯炊きと湯沸しとブログに使っているわけなんです。だから朝の時間は僕にとっては非常に貴重な時間で、贅沢な時間なんですね。5時から7時前までの2時間です。それが終わったら食事をして仕事に行く支度をして、家を出る訳です。ここからの8~9時間は僕にとっては苦痛の時間です。苦痛でもないけど、自由に使えない時間ですね。自分の時間を会社に売って生計を立てております。この時間を僕の意思によって使える時間にできれば一日の内ほとんど贅沢な時間と言えるのになとずっと思って10年ぐらい。まだこの生活を続けるかと言うことですよね。ええ加減にせんと。時間が尽きる。

朝の時間から引き続いて出来たらよいなと思うことなんですが、今のところ他に贅沢時間はないかいなと考えてみると、コーヒータイム、畑部ですね。あと読書か。

コーヒータイムも自分で作っています。手動見るで豆を挽き、ガスで湯を沸かし、ハンドドリップする。という一連の流れ。これも全部自動で機械でやれば時短できますが、敢えてしません。自分の時間を使うことが一番の贅沢だとしっているから。いつも味が違うのが良いのかな。やっぱり車の運転と一緒でオートマよりもマニュアルで運転する方がやってる感があって楽しいからですね。

どれも手動で、完ぺきにではないけど手動でやるとやった感があって充実感があるのだなと最近思って来たんですよ。

20代の頃なら考えられません。いつ死ぬかわからんやって思ってたのでとにかく時間のかからないようにやってました。そして時間ではなくてお金をかけることを最優先にしてました。お金で時間を買っていたのですね。だから料理したりとかも時間もったいないから、買うとか外食とか。やっても時短するために便利な道具を買ったり。長距離移動は時間がもったいないから飛行機を優先的に使うとか。そんなことを中心に考えていました。

でも今思うのは時間をできるだけ浪費しないように大事に扱うことではなくて、どんなことに貴重な時間を使いたいかという考え方に変わってきました。これは変わったと言えるのかわかりませんが。限られた時間の中で自分の自由に使える時間を捻出するためにどれだけ無駄な時間を削るかと言うよりも、具体的にやりたいことがあったらそれを実現するためにはどうしたら良いかと言うことを考えるようになりました。あれ、これって計画性ですか?計画性っぽくないですか?なんかそんな感じがします。

計画性がこんなところで出てくるとは思いもしませんでした。計画というかイメージをすることって大事なんですね。最近は毎日やってますね。イメージというか明日の朝も米炊いて、湯沸かして、ブログ書くと寝る前に考えています。

そうなんですね。やっぱり思ったことは実現できますね。思ってみるもんですね。

コーヒーショップ始めたいですよね。テイクアウト専門の。というか移動式のやつ。

コーヒーショップって店舗構えなかったら、初期費用すげえ少ないですよね。てかもう必要なものは全部持っているので、あとはやるだけぐらいのレベルなんですが、行動できてませんね。どうやったらできるか調べてみますわ。時間限られてるし。

大丈夫、きっとうまくいくよ。でやったらコーヒーショップも上手くいきそうですね。淡路島中をウロウロしたらいいですよね。まあ島外出てもいいですしね。

やり方は色々ありますね。

「僕に残された時間は限られている」の言葉を合言葉にやりたいことやっていこう。

おっちゃんと星野仙一になった僕と

時々、いやしょっちゅうかな。夢見てます。寝てる時も起きてる時もどっちもですけど。夢見ます。ほんで変わった夢というか、現実的ではない夢を見ます。当たり前か。寝てみる夢は非現実的なことが多いわな。昨日はなんと人生で初めて号泣して目が覚めました。あれは凄かった。あんなに泣くことないと思うんですけど、マジで泣きました。夢の中で号泣してんだなと思ってたら、目が覚めたらボロボロ涙が出てました。

まあどんな夢だったかというと、ホームレスのおっちゃんに出会い、途中からというか最終盤に来て僕が星野仙一になってアテネオリンピックの時の野球日本代表のコーチ陣と再会し励ますという夢でした。統一感0なんですが。こんな山だったんですよ。

昨日の夢はよく覚えています。なんでかな。

 

ホームレスのおっちゃんは橋の下で生活しています。とても、気の良いおっちゃんで自分のためではなくて周囲のために何かすることを喜びだと感じています。でもおっちゃんは周りに迷惑かけてはいけない、人と合うと面倒に巻き込まれるのも嫌だからと日中は家、といっても橋の下にブルーシートを括り付けたような囲いの中で生活しています。なのでおっちゃんが外へ出てくるのは日没から夜明け前まで。暗闇ですれ違っても誰だかわからないような時間帯にしか外に出てきません。というのもおっちゃんは幼い時に見た目でいじめられたことがあります。おっちゃんは一般に言うところの奇形が顔面にあります。とても醜いと小さな頃から言われてきました。でもそれは事実かどうかは誰も知りませんでした。夜会っても、顔面がどうなってるかはよくわからないからです。しかもおっちゃんがいる橋の近くは街灯もないところです。日中は車の往来や自転車に乗った人など良く通るのですが、夜になるとタクシーぐらいしか通りません。なので、タクシーの運転手さんなんかはおっちゃんが土手から道路に上がってくるところを見たことがある人もいるらしいんです。その人たちも口を揃えておっちゃんは醜いと言っていました。だから誰もその橋に近づこうとはしませんでした。小さい頃の僕は自転車で出かける時にその橋の上を良く通ったので、橋の端っこの方を走って下を覗き込むんですが一瞬しか見えないのでブルーシートがチラッと見えるぐらいしか見たことがありませんでした。止まって見ることも出来たけど、もしその醜いおっちゃんと目があったりしたら襲われるんじゃないかなと思ってとても怖くて止まって見ることなんでできませんでした。なんせビビりだから。でも中学生ぐらいの時にともだちでそのおっちゃんのところに行ってみようという話になりました。それまで周囲の人でおっちゃんの姿を見たことがあるという話を聞いたことが無かったので、俺らが1番に見ようぜと誰かが言い出してノリでその企画にさ参加することになりました。やっぱ中学生って調子に乗りたい年頃なのかどうしてもそういう興味本位で行動しちゃうところがありますよね。やめときゃいいのにってことを軽くやっちゃいますよね。怖いもの知らずというのか、ただの純粋な好奇心の塊なのか。

と言うわけで友達5人でおっちゃんのところに行くことになった訳なのですが、それまでに一悶着ありまして、行っただけじゃ意味無くないみたいな謎のノリが出てきて、行ったからにはなんかしようぜとなりまして、行ったって話しても誰も信じてもらえないから何か証拠が必要だろうと。その当時は今みたいにスマホがなかったので、どうしようかとなりましてかと言ってデジカメなんかもまだそこまで普及してない時代です。友達がそういえば家に写ルンです姉ちゃんのやつあったわとなりまして、写ルンですで撮ったらどうやろとなって、それは名案だと言うことで作戦は結構されました。しかし、当日写ルンです係の友達は恐れをなしたのか、体調不良だと言うことで行けなくなりました。残された4人はどうしようかとなりましたが、ここまで来たら行くしかないやろとまだ謎のノリを引きずっており決行されることになりました。証拠はおっちゃんにサインをしてもらったら十分やろと言うことになり落ち着きました。

まあこの辺で夢なのでだいぶ場面が飛びまくりまして、どうなってどうなったかは分かりませんが僕はおっちゃんと2人でいました。話をしていたのです。なんの話かははっきり覚えてないし。いつの間にかおっちゃんが醜いという話はどこかに霧散し、おっちゃんは実は田山涼成さん?だったかな名前忘れたけど、あの人がおっちゃんの正体でした。

なぜホームレスになったかという歴史もそこそこに僕はそのおっちゃんと仲良くなって、困り事があったらおっちゃんに相談に行っていたようです。

そんなおっちゃんがある日、俺実はもう死ぬんよといつになく悲しい顔をしていました。どうしたと聞いてもハッキリと答えてくれませんでした。でも気づくと周りにカメラマンがいて、僕達2人のことを撮影していました。というか実はずっとカメラは回っていたらしく、僕はドラマの撮影にずっと参加していたそうです。

しかも謎設定で、田山さんは星野仙一さん役らしいんです。星野さんがホームレスなったとかそんなんないでと心の中でツッコミつつ、しかも僕が中学の時は確か中日の監督やってるはずやのに意味わからんと思いながら、僕はそれでもおっちゃんと仲良くなってたから真剣なおっちゃんを見捨てて、死ぬとか嘘やろ!何言うてんの?とか言えませんでした。静かに悲しそうな星野仙一さん役に徹している田山さんの横で佇むしかありませんでした。

なんならそんなこと言わんといてよおっちゃんとか言いながら泣くフリすらしていました。

泣き始めた瞬間に僕はいつの間にかリアル星野さんになっていました。

ヤバいぞこれはと思いました。何がヤバいのかはわからんけど、直感でヤバいと思いました。なんかよくわからんけど。

星野さんにらなった僕はアテネのコーチ陣を橋の下に呼びつけることにしました。

盟友である山本浩二さん、田淵幸一さん、そして大野豊さん。多分その3人だったと思います。

3人もびっくりしますよね。急にどこか訳のわからん場所に呼び出されていつの間にか星野さんがホームレスな訳ですから。にも関わらずみんなめちゃくちゃ普通な態度で察してるんですよ。よー!みたいな感じで笑顔で3人ともやってきました。めちゃくちゃ自然です。なるほどこれは撮影かと思って周りを見回すとカメラがないんですよ。

これはリアルな感じで星野さんがホームレスになっているのに誰も疑問を持ってないんですよ。名将と言われた星野仙一がホームレスなんですよ。にも関わらず普通に振る舞うってどういう状況やといくら盟友であると言えど心配するやろ。後輩の大野さんは気を遣っていつも通り振舞ったとしても、浩二と幸一はなんから突っ込めと思ったけど、なんの疑問も持たずにブルーシートの住まいに入ってきました。何回も来たことがあるような感じで土手を降りて迷いなく入ってくるんですよ。星野さんもホームレスであることを恥じるでもなくすごく堂々としてたんですよ。

3人揃ったところで、僕はみんなに話始めました。そうなんです僕星野さんとなって話しています。実は俺死ぬねんって。この話をしたらホームレス姿には微塵の驚きも見せなかった3人が急に動揺し始めました。おい、冗談はよせよとか言いながら。その前にツッコミどころあったやろと思いながらも、僕はセリフかのように滑らかにそして訥々と話始めました。

実はな、俺あと1週間ぐらいで死ぬねんと。なんでかわからんねんけどそんな気がすんねんと。金もないから病院も行ってなくて、医者に診てもらった訳じゃないねんけど。わかんねんこれは死ぬ時やなって。1週間もないかもしれへんって。だから最後にもう一回お前達に会いたいなと思って今回読んだんよって。言うてました。状況的になんのこっちゃですが、皆さん一応に泣いておられました。

1週間後に死んだかどうか確認しに来て欲しいからもう一回集まってって言うてました。それで解散したのです。

そして1週間後になったら、今度は僕はカメラマンになってました。そして、さっきの4人と何故がおっちゃんもいました。僕は5人のやり取りを撮影してました。そうするとおっちゃんが話始めて、俺生きてわ!よかった!って言うてました。一同感動の渦でした。それを僕はめちゃくちゃ近くで、カメラが本人達にぶつからんとするぐらいの高さで撮影してました。良かったなーってみんな言うてます。おっちゃんが1人1人に声かけてます。

「浩二、お前は大事なところで逃げる癖がある、これから人生何があっても逃げるなよしっかりと立ち向かえ!」浩二号泣。

「田淵、顔がいいからって調子に乗るなよ!人間は心や!心意気やぞ!」田淵も号泣。

「大野、お前は良くやってるこれからも期待してるぞ!」大野褒められて号泣。

そしてそれを見た僕はカメラを抱えたままで、ヒクヒクなるぐらい号泣して、最後にはカメラを放り投げて、5人で円陣を組んで号泣していました。

目が覚めたらまだ号泣きていたという話です。

 

この話の8割は後付けでした。面白かったかな?僕は凄く面白かった。

また夢を肉付けして書いてみようかな意外と楽しい。思考を形にするだけじゃ無くて、夢をさらに膨らましてテキトーに書くという手法ですね。

夢小説ですね。シリーズ化しても面白いかも僕だけやけど。

大丈夫、きっとうまくいくよ。

自分だけでも楽しんでたらそれはそれで良いんじゃないかな。