いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

普通という幻想

普通って嫌やな。

いつからこんなこと思い始めたのかなと遡ってみますが、あんまりはっきりしないんですよね。でもなんかみんなと同じって嫌なんですよ。すごく小さい時からそんな風に思っていたような気もするし、社会人になってから思い始めたような気もするし。とにかく嫌だったんですよ。今はそんなに気にすることはなくなってきたかと思います。普通って思えることって最高やとさえ思っています。感謝ですよね。

何が普通かってことなんですが、これは完全に個人的基準であり、基本的には他の人には当てはまらないものだと思っています。まあこの前提をおいた時点でかなり偏った考え方であり既に普通ではないのかもしれませんが、僕にとっての普通は、それなりの生活です。

まあそれなりの生活と言うものが既にあいまいであり、基準にならないのは百も承知です。それなりの生活というのは僕の人生ぐらいのことではないかと常々思っていました。僕の生活は平均的であると。僕の経験値も平均的であると。そう僕は平均的であるということがまず普通の基準の一つにあるかもしれない。しかもこの平均完全に僕基準であるということがまたポイントなのですが。だって平均なんて測定したことないですからね。平均年収とかは調べたらわかるかもしれんけど、生活の平均とか経験値の平均とかって数値化するのが難しいですよね。出来るんかな。出来ると言う人がいれば是非ともご教授願いたいです。僕の考える平均と比較してみたいと思うから。

まあ僕の平均的とは、小学校から高校まで通う。なんか部活やる。ほとほどに友達がいるということですかね。これも人によっては満足して出来ない人もいるということを大人になって知りました。ふざけてますよね僕って。自分の人生十分改めてみると満たされているはずなのに当時は全く思ってませんでした。

家族構成も僕は普通だと思っていました。父親、母親、姉、兄、僕の5人家族でした。平均的じゃないですか?すごくバランスが取れた家族構成だと思いませんか。これが僕の普通。でも両親がいることとか兄弟がいること自体が当たり前でもないですからね。思わぬことで両親のどちらかもしくは、どちらもいなかったすることもあるし、一人っ子だってある。兄弟が多いところもある。果たして僕の思う普通とは何なんだとなりますよね。全く持って個人的見解であり、どのような場面においても当てはまる部分はない。

そして父親はサラリーマンでした。これもすごく普通だと思う部分。スーツ着て毎日電車に揺られて仕事へ行くということが普通の大人だと思っていました。こんな大人にはなりたくないなと。別に父親を否定している訳ではないのですが、同じような服所謂スーツを着て、同じ方向の電車に大量の人数で乗って、歩いて会社に向かうということが当たり前に行われているのが違和感を感じていたんですかね。

普通とは違和感の象徴なのかな。みんな同じようなことをやっているのが変に感じたのかな。良く分からなくなってきましたが、普通の話してたのにみんな同じとかいう話になっていました。結論のでない旅がまたここで始まりました。

普通と一般的を混同しているのかな。それもまた違うんだけど。ただ自分の人生を否定したいだけかもしれない。僕の人生を普通だと決めつけて、面白みのない人生を送ってきていると。単純な自己否定をしたかっただけかも。そして面白みがない=普通と決めてつけている感じ。劇的なことがない人生=普通=面白みがない=僕みたいな方程式が僕の中で築き上げられている。そんな感じがする。ほんど説明するのがめんどくさいから普通と言う言葉でまとめて行ってしまている。

でも普通と言うのは本来存在しないような気もしてきた。それぞれ違うもんなと思って。僕と同じ家族構成で、同じ町で育ったやつでも、僕と同じ道を歩んでいるやつなんて聞いたことはない。それに同じような人生送っていても考え方が同じになるかどうかもわからない。僕の普通はただ単なる自己否定のすごく矮小化されたつまらない幻想だったということが良く分かりました。

でもこの普通と言う言葉にすごく悩まされてきたというか。たぶん誰かに言われたことがあるんじゃないかなと。お前って普通やなって。そんな気がする。それがどこかでひっかかって引きずっているのかも。普通=ダサいという方程式も自分の中であるんですよ。ほんで流行=普通っていうのもあって、新しい物好きではありつつも流行にはまず乗らないようにしていました。流行るって別に自分の中で流行ってるわけではなくて、世の中的に流行ってるだけやし。世の中で流行っていることって誰かが作為的にしたものだといつ日からか思っていて。自然発生的に同時に日本中で何かが流行るっておかしいですよね。どんだけ島国で小さいからって言ったって、そんな同時に流行らんでしょと。それは誰かが流行らそうとしているから流行っているだけで、そんなんおかしいってってたぶん思っていたんだと思います。というか今思いました。ほんで流行=普通でもありますよね。だってみんなやってんだもん。となるとまた話は戻ってみんなやっている=普通に戻ってくるな。大量のサラリーマン=みんなやっている=普通という方程式も成り立つようになってきた。一般的な家庭=まるちゃん=サザエさん=うちの家族=普通と言うのも成り立つような気がしてきた。一般的な家庭=中流家庭=普通。中流家庭=作られた幻想=つまらない。みたいなことも言える。

ということは普通という言葉が嫌ではなくて、人が作った概念というか基準というのかな。それが嫌と言うことですね。だんだんとわかってきた。ということはですよ。僕はこの年になるまでそんな中学生みたいな思いをずっと持ってきたのかということなんですよ。恥ずかしいなと同時にまだまだ死んでないなとも思う訳ですよ。こういうしょうもない子供みたいなひねくれた考え方ってずっと持ってた方がいいと思うんですよ。なんかしら大人になったら、空気を読んで和を乱さずスマートに生活するというのがよしとされているような空気を感じる訳ですよ。空気は読めないけど、感じることは僕だってできます。というか出来ているような気がしています。ていうかスマートって何ってわけですよ。それが良いって何って。こういう風にすぐにかみつきたくなる訳です。悪い癖なんですよ。

そう普通にしといたらええねんって。いつか言われたんですよ。普通にするって何ってなりません。どうしたらいいのか聞いているのに、答えが普通にしといたらいいって。どういうことよって。そうそう。そういうやり取りが小さい時にあったんです。そこから僕の中では普通とななんぞやとと言う旅路がスタートした訳ですね。ありもしない。普通、ある意味でいう幸せの青い鳥を探すようなもんですよ。ありもしないんですよ。そんなことをしていたせいでもう30歳超えましたよ。30の半分ももう少しで超えるんですよ。すごい人生ですね。普通を探求する人生ってなんなのよって。どんだけ徒労人生なんだって話ですよね。こんな幻想に苛まれていたかと思うと悲しくて悲しくてとてもやりきれないですよ。あの歌いいですよね。パッチギって映画で知りましたけど、いい歌でした。そしてパッチギの時の沢尻エリカすごくかわいかったです。普通な素朴な感じで。出ましたよ普通が。沢尻エリカのどこが普通やねんって話ですよね。あんな顔そうそういませんよね。そうなんですよ。普通って僕の口癖かもしれないですね。普通3段活用ぐらいあるかもしれません。否定の普通、合格点の普通、褒め言葉の普通。色々あります。ということは僕の中での概念では普通というのは必ずしも悪い意味だけではなと言うことですね。凡庸を象徴するような言葉でもありつつ、汎用性の高さがあるすごく興味深い言葉であるということです。

これは普通の哲学とか言って突き詰めてもいいかもしれませんね。まあやりませんけど。というかもしかしたら既にやっている人がいるかもしれないし。僕はおんなじことを深く突き詰めるのできないから。哲学なんてできないし。

まあそんなこんなで朝も早くから記事を二つも書いてしまった。書いてなかった分溜まっていたのでしょうね。やらないと溜まりますもんね。それと一緒です。どれとかわかりませんけど。これがわかる人は普通です。普通そうなりますからね。

まあそういうことのしておきましょう。

今日もグルグルブログをお読み頂きありがとうございます。

いつも思うけどこれ最後まで読んでる人おるんかな。

この文章を最後まで読み切れるというそこのあなたは駄文を読み切れるほどに余裕があるということ。ということはそれなりに満たされているということだと思いますよ。

だからこそ、大丈夫、きっとうまくいくよ。なんですよね。

文章を最後まで読めるってそういうことだと思うんですよ。

文章ってそんな余暇的なもんだと思っています。

その人の人生を変えるような出会いもあるかもしれないけど、なんとなくテキトーに読めるのも文章の良いところなんじゃないかなと思っています。

ぼんやりぐらいがちょうど良いみたい

ここ数日風邪をひいて大人しくしておりました。インフルの予防注射+農トレを激しめにやるかつ気温の変化に身体が対応できていなかったことが重なって体調を崩したのではないかと分析しております。この1、2年は環境が変わったのにも関わらず、風邪をひくことが少ないなと妻と話をした翌日に風邪をひきました。余計なこと言うもんじゃないなと痛感しました。風邪をむしろ呼び込む形になりましたね。

僕は子供の時めちゃくちゃ目が良くて、次第に悪くなり、メガネ・コンタクトを経験しました。高校の途中ぐらいから目が悪くなってきて、そこから数年で一気に視力が低下し、専門ぐらいにはメガネ・コンタクトがないと生活に支障を来すレベルでした。あんなに目が良かったのにと今でも悔やまれます。裸眼って最高に気持ちが良いですね。起きた瞬間からめちゃ見えてるんですから、メガネ・コンタクトを経験したからこそ分かる爽快感というか、気持ちよさというか。あれは一回悪くなった人でないと分からない感覚じゃないかなと思う。

社会人になってメガネ・コンタクト生活に煩わしさを感じ出して、目の調子もあんまり良くなかったし、当時結果が安定してきているというレーシックをすることにしました。知り合いでやってる人が出てきて、すごく調子がいいし、何しろ朝起きて目が見えるのが良いという話を聞いてこれはやるしかないと思って。大枚はたいてやってみました。手術は右肩の手術で経験してたからそんなに緊張しないかなと思ってたんですけど、あの手術の部屋に入ったら緊張しました。真っ暗闇の中で手術の椅子に座らされて目にレーザーを当てられるんです。なんか改造される気分でした。ライダーに改造される気分でした。目だけやけど。

そんな緊張する僕を見かねて(後から聞いた話では全員にしてるらしいけど)、助手の看護師?かなそんな人が僕の手をギュッと握るというサービスをしてくれました。サービスかどうか知らんけど。その当時僕はよっぽど不安そうにしていたのだなとちょっと恥ずかしく感じましたが、すごく安心しました。手を握られてあんなに安心できるなんてと良い体験をさせて頂きました。そのおかげかどうか、無事に手術は終わった訳なんですが、そのあとの目の痛みたるや惨憺たるものでした。聞いてはいたけど、あんなに痛いとは。当時実家の明石に住んでいたのですが、手術を大阪の梅田でして、手術終わってから家に着くまで涙が止まりませんでした。周囲の乗客からしたらこいつ一体何が会ったんやと思われたかもしれません。痛みの度合いは人それぞれだと思うんで、たぶん僕が特に敏感だっただけじゃないかなとは思いますが、それぐらい痛かったんです。

痛すぎて、手術しっぱいかなとか思ってました。せっかく手握ってもらって安心したのもつかの間でした。その日は痛すぎて何もする気がしなかったので、すぐに寝ることにしました。その時点で術前よりよく見えるようにはなったいたんですけど、痛みのせいでなんとなく気分は晴れてませんでした。

翌朝起きてから感動しました。起きた瞬間から部屋の中がめちゃくちゃクリアに見えていました。こんなに壁が汚かったっけなと思いましたが、そんなことはさておいてとりあえずすべてのものがくっきりと見えていました。

術前のおぼろげな感じが全くなく、境界線がはっきりと見えていました。

はっきりと見えることがよいと思って生活してきましたが、ここ数日早起きをして真っ暗な中こうやってブログを書いていると、日の光がまで出ていないので、ぼんやりとしか見えていません。でもなんかいいんですよね。その感じが。

物事は白黒はっきりと明確な方が良いと思っていて、わかりやすい方がいいだろと思っていましたが、ぼんやりと見えているとしゃかしゃか素早く動けず、ゆっくりと確認をしながら確実に動こうとします。急がない。急ぐ必要もないのですが、ゆっくりと動くと焦る気持ちも生まれない。慎重に行くことが僕の元々の持ち味ですが、より一層慎重に動くようになります。

なんでもくっきり鮮明に見えることが良いとされる世の中になっています。その方がインパクト強いですもんね。なんか良い感じに感じますよね。ディスプレイの解像度もあ上がれば上がるほど良いとされていますもんね。分からなくはない、そういうのを見ると気持ちがスカッとするというか、それにも爽快感のようなものを感じることができますもんね。胸がすくような感じというのでしょうか。そんな雰囲気がある。境界線が明確でわかりやすい。思考の余地がないというか、すごいものはすごいという感じですよね。圧倒的だと思います。

でも暗闇を経験するとそれだけでもないのかなと。鮮明さだけが良さではないような感じがします。暗闇は日中のような鮮明さはないですが、濃淡がある。濃淡だけでもモノが識別できるんだなと改めて認識できます。それがなんかすごいなと思って。上手く表現できないんだけど、まずそれだけでも十分すごいことなんじゃないかなと思って。クリアな世界だけが良い世界と言う訳ではなくて、多少の差があるだけでも面白いと言うのか。なんかこう安心するというか。クリアすぎるとくっきりしすぎて違いがわかりすぎると差が大きすぎて気後れするというのかな。なんか刺激が多すぎるのかな。時にはそういうのがあってもいいけど、常に刺激が多すぎると言うのは脳への疲労具合がすごいんじゃないかなと思って。

まあ何が言いたいのかはよくわからないけど、クリアで鮮明で境界をはっきりさせることだけが良いという訳ではないということ。ぼんやりとあいまいで濃淡だけの世界も十分楽しめる空間であるということ。まあこれも言いたいこととは違うような気がするな。心に少なからず闇というか不鮮明なところがあっても良いということかな。光と影とも違うけど、そういった闇みたいな部分があると安心する部分もあるんじゃないかなと思う。そうスポットライト充てられて全部が丸見えっていうのも叙情がないというか、どうなってるんやろという興味関心が湧きにくいというのかな。僕は性格的にすべてをさらけ出すタイプではないから余計にそう思うのかもしれない。明るいことが、わかりやすいことだけが安心感に繋がる訳ではないなと。

そんな良く分からないことを今日暗闇で着替えてたら思ったんです。暗闇・ぼんやりは意外と大事だなと。身体はそれを欲しているなと。確かに身体を休めようと思うとぼんやりした世界もないと休まりませんよね。常にガンガンだと身体は疲れてします。

体調を崩したからこそ分かった世界かもしれません。

体調を崩すのは悪いことばかりではなく、得るものもあったりするんですね。

もう少ししたら畑にまた行ってきます。

ではまた。

大丈夫、きっとうまくいくよ。

ということで今日も一日やっていきましょう。

筋トレより脳トレより畑部で農トレ

僕は筋トレが嫌いです。嫌いと言う訳ではないけど嫌いです。筋トレ自体が嫌いというかそのしんどさが嫌いと言った方が正しいかもしれない。あれしんどくないですか?それにやったあと必ず来る筋肉痛。しかも翌日に来る感じ、そして何日か続く感じ。あれが嫌。筋トレ終わった後の一瞬の爽快感はわからなくはない。やった感は確かにでるけど。結局得られるのはその一瞬の爽快感と無駄に大きくなる筋肉。筋肉が大きくなるのも僕嫌なんです。Tシャツ来た時に盛り上がる感じ。まあ盛り上がるほど筋トレしたことないけど。パンってなってるあの感じがすごく苦手。あとピチピチの袖。そんなサイズ感で服を選ぶことが無いから経験したことないけどあれも苦手。好きな人はやったらいいと思うし、今流行ってるからやった方が世の中の人はどんどんやったらいいと思う。爽快感があって、達成感もあって、ストレス発散に繋がると思うので好きな人は是非どんどんやってください。僕なんかに言われなくても好きな人はやると思うけど。

でも筋トレってその先になんかがあったらやるけど、特にその筋肉活かさないんだったらちょっともったいないなと思う訳ですよ。筋肉ってみせびらかすためにある訳ではないと僕は思うので。すごく実用的なものだと思うので、筋肉美とかよくわからない訳ですよ。

あーちょっとやってしまった。今気づきましたけど、すごく他者を批判していますね。ちょっとやってしまたけど、書いてしまったものは仕方がないので、気づいた今時点で批判するのやめます。やりたい人がいてそれで幸せなんだったら、やってない僕がとやかく言う必要ないですもんね。楽しいんだから。それでいいんですよ。僕も僕の大事にしているものを批判されるの嫌ですもんね。そうですよね。人のことを考えて発言をしないといけませんよね。一瞬だけ反省しておきます。一瞬だけだと反省のフリにしかならないけど、反省したとはっきり言ったら反省していることになると思うので、反省しました。

あと脳トレはもっとピンと来ない。確かに認知症予防とかで大事なのかもしれないけど、何のためにやるのかなと。何のために認知症予防をしないといけないのかなと。その先にやりたいことがあるんだったらいいけど。予防のために何かするってすごく時間がもったいないような気がして仕方がない。何かのついでに予防になったらいいぐらいの方が時間が有効に使えているような気がする。

批判はこの程度にしておきましょう。因果の法則なんてないと思っているけど、やりすぎると反発が起きるかもしれません。作用・反作用ですね。これと因果って同じなんかな。じゃあ因果の法則ってあるんかな。まあいいけど。

僕は最近畑部をやっています。今年に入ってから。たまたまキャンプできないし、外出もしにくい世の中になっていたので、畑興味あるかと言われたので、やってみることにしました。岩手に住んでいた時もご厚意で畑を利用させて頂いたこともありました。その時はほとんど作業してなかったですけどね。その畑の持ち主の方のところに遊びに行っていただけで、作業としてはたまーにほんとにたまーにやらせてもらっているていどでした。そのため、草刈りとか土作りとか畝たてとかたぶんやってない。整備したけど、使ってないところを利用させてもらっているだけでした。その時も無償で利用させて頂いていました。たまーにしかやってないけどそれはそれで楽しかった。種植えたら芽が出て、収穫して、食すことが出来るんですから。子供の時に朝顔を鉢植えで育てた以来、植物を育てたことなんてなかったので、楽しかったです。

そんな初めての畑作業でしたが、今回は畑部として活動しています。草刈って、土作って、種まいて、収穫。また草刈って、土作って、種まいて、収穫。みたいなことをやっています。ただそれだけですが、楽しいんですよね。外出しにくい状況だったので、気分転換にもなりました。適度に汗かいて、収穫して食べた野菜は美味しいですもんね。実際に味を評価したら美味しいのかはわかりませんけど。それでも美味しいです。それなりのもんが出来るんですからね。土作ったといっても元々の土壌が良いみたいで、勝手にぐんぐん成長してくれました。上手くいく野菜もあれば上手くいかない野菜もあって、それもまた一つの楽しみですね。失敗体験は残念ではあるけども、また次やってみようという気持ちにもなります。失敗すんの好きじゃないけど、畑部に関しては楽しい方が勝っています。

自然にまみれた環境で、ただただ作業するというのはすごくいいことだと感じました。運動不足の解消にもなるし、ストレス発散にもなる。そして収穫した野菜を食べることでお腹も満たす。最高じゃないですか。全て流れがあるじゃないですか。筋トレは筋トレしたら終わり。脳トレ脳トレしたら終わり。でも畑部の農トレは動いて、食べて、ウンコして。全てが流れありますよね。最後のウンコに関しては、まだ土に還すことが出来ていないので、流れていないといえば流れていませんが、そこまでできるようになると完結しますね。繋がって、流れていくなと。そこまでやりきりたいですよね。そんで、調理には薪を使ってその灰をまた畑に撒いて。みたいな。ということは一軒家と山林が必要になってきますね。これが揃うと完結した生活が出来るようになってきますね。なんと楽しみなことでしょうか。膨らみますね。

これからの僕の生活は完結させていくと言うことかもしれません。生活の流れが出来ると生きやすくなると思うんですよね。知らんけど。やったことないし、妄想やし何の根拠もここには存在しませんが。と思いながら農トレをしている訳ですよ。色々妄想が湧いてくるのがまたいいじゃないですか。

あと畑部してると感じたのが、どこにいつ何を蒔くのかというのをある程度想定しておく必要があるということでした。ここでも出ましたね、僕の人生の課題計画性。僕のやっている畑部ではこれは絶対かもしれません。でないと野菜が上手く育てられないというか、僕の植えたい野菜を育てる場所が無くなってしまう。ただただ適当に植えてしまうと場所に限りがあるのでどうしても思うほどの量を収穫することができなくなります。野菜によって時期があるので、その時期に合わせて蒔く必要があるわけですよ。当たり前の事なんですが、やり始めて初めて気づきました。でもこれは自然のリズムに合わせているからいいなと。僕のリズムではないけど、嫌な感じはないですね。人のリズム・ペースに合わせるのは嫌やけど、自然の方はなんかいいみたい。窮屈な感じがしない。だって太陽が昇って、沈むということに抵抗することできませんもんね。それと一緒かな。むしろそれに合わせて生活した方が体調もいいみたいやし。是非とも自然に合わせたいという気持ちにしてくれます。

まあなんのこっちゃというかんじではありますが、畑部いいよと言うことが言いたかったんだと思います。たぶん。

畑部入部する人増えたらいいのになと。別にやらなくてもいいんですよ。でも気持ち良くなる一つの方法として知っておいてもらえるだけでもいいのかなと思っています。

キャンプ部と畑部と土鍋でご飯炊き部とコーヒーハンドドリップ部絶賛募集中です。募集ったって集まって一緒にやりませんよ。それぞれで始めましょうと言うだけの話です。集まってなんか色々やるのってめんどくさいじゃないですか。時間と場所の調整で疲れます。なのでそれぞれで楽しみましょう。

大丈夫、きっとうまくいくよ。を合言葉にそれぞれで楽しみましょう。

正常か異常か

最近の僕はどちらかというと異常な感じかもしれない。僕としては特になんら変わっている感じはないけど、こうやってほぼ毎日大量に文字を書いているということを僕をっている人たちはどうしたと。そう感じている人もいると思う。「ちょっとおかしなったんちゃう」って。

まあたしかに日常生活していて、毎日こんなに文字を書くということはあまりないですよね。物書きでもないのに。なのでこんなに毎日たくさん文章を書いているので僕は物書きになったんだと思います。勝手に物書きだと思っています。ただ好きでやっているですけどね。それでも自分がそんな感じだと思ったらそれで良いのかなと。

でも世間一般で言うとそんなこと言うやつちょっとおかしいんちゃうとなるわけですよ。普通ではないと。普通の人は会社に勤めて働いてたらその職業の人であって、それ以外の職業。ましてやモノづくりの人だと自認したとしていても他人から見たらそうではなくて、ただの素人。下手の横好きぐらいなもんで、それを声高にというかそうでもなくても、アピールしだすと。どうなんこの人みたいな感じで違和感を感じるのかもしれない。違和感は正常ではないと判断されると感じるのかな。違和感ってでも悪いことではないと思うんです。違和感あるわって言葉がなんとなく変な感じの言葉として使われているけど、実際のところいつも感じていることとは違う感覚ってだけであって、良くも悪くもない。それなのにいつもと感覚が違うと。あれって思ってしまう。あれって別に不快でもないと思うけど、なんかそんな感じ感じてしまう。いつもと同じがやっぱりいいんですよね。脳的にもそうなってるんかな。たぶん。

最近思うのは正常か異常かという風に物事を判断しすぎなのかなと。世の中的に。というか僕の中での話かなこれは。僕の中での世の中であって。僕が以外の世の中は僕は認識していないことなので、僕の中での世の中と言うことにしておきます。まあそんな前提はどうでもよいのだけど。世の中的に正常・異常、良い・悪いとかはっきりさせようとしているのかなと。中間とかそれ以外という立場は意見がないのと同じと言う感じになってるんじゃないのかなと。判断したがる傾向にある。似たようなものでも、これが良ければあっちは悪いとか。どっちも良くてもいいよねと僕は思うのですが、どうしても対立構造作りたがる。いや、実際にはそうでもないか。日本人は曖昧さを良しとしているんだから。そんな傾向にある訳ないか。勝手に僕がそう感じているだけで。シロオワールドでそうなっているだけかもしれない。勝手な先入観でした。

まあそんなことで、こんな文章を書いているとやっぱりあの人どうしたってなるわけですよ。どうしたもこうしてもないんですけど。グラデーションがあるということを言いたいんです。たぶん。黒と白だけじゃなくて、黒と白の間に黒っぽい黒もあれば、白っぽい黒もあるし、黒よりの白だってあると。そういうのを確か誰かに教えてもらった記憶があるんですよね。誰かわすれたけど。結構えらいさんだったと思っているのですが、わすれました。なんか良い言葉やなと思った訳ですよ。その当時。なるほどなって。だからあんまりに正常か異常かということにこだわりすぎるのは良くないんじゃないかなって今の僕に投げかけています。果たしてその思いが届いているかはいささか不安ではありますが。あんまりこの部分に着目しすぎると自分自身が疲れてしまうよねって話です。そう僕はもしかしたら、明確にそこを分けすぎて自分自身を苦しめてきてしまったのかもしれません。そうです僕は色んな人からお前の考え方は0か100かやなと言われ続けてきました。この文章は自分に向けて書いたすごく内向きな言葉だということに今気づきました。というか毎日誰かに向けて書いていると思っていた文章は全て自分に書いていたのかもしれないと。今すごく恥ずかしい気持ちです。

なんて自己中心的な、後悔マスタベ―ションをしていたのかと。そんな人間なんですね僕は。どうしてもそこから抜けきれないところがあるんだと思います。それが良いとか悪いとかではなくてね。そうなんですよ。良いとか悪いとかではないと思うんですよね。そういう場合もあるし、そうでない場合もあるということなんですよ。それぐらいのことで緩やかに行けたらいいのではないでしょうか。自分の持っている判断基準と違うことなんていくらでもあるんだから、そこから外れたからと言ってそれはおかしいと直ぐに判断を下してしまうのはもったいないんです。初対面でほぼ決まるなんて思ってたらもったいないんですよ。でも僕は初対面がほぼ100%だと思っているので、ファーストコンタクトで会わないと思った人とは仲良くなれません。どうしてもだめなんです。どれだけ僕の近しい人が勧めてくれた人であったとしても、ファーストコンタクトが違うとなったらどうしようもないです。ダメなものはダメなんです。これは中々変わらない。人って変われないなって自分の体験を通して感じます。変われないんだったらどうしたらいいのかなってよく考えるんですけど、考えていると良く分からなくなって眠たくなって寝ます。そうすると昨日何を考えてたかなと思って、そんなに深刻になることはないです。良く眠れます。ほとんど毎日快眠です。昨日も22時前には寝て、起きたら4時44分でした。どうでもいいことですけど、ちょっと怖いですよね。今日は何か起きるのかななんて思ってしまいます。平常運転だとは思うんですけどね。

自分の感覚を信じすぎている人が多いのかなって。もちろん僕を含めてですけどね。自分の感覚が、経験が正しいと思っているから人のことを否定しちゃうんじゃないかなと僕は思うんです。自分の持っている意見とは違う意見が正しいとなると勝手にじゃあ自分はどうなるんだと不安に思うんですかね。意見が間違っている=自分が間違っている。意見=自分みたいな。そんな構図が出来上がるんでしょうかね。よくわからんけど。人のことを否定するって怖いことだと思うのですが、否定してしまいますね。それだけ自分のことを守りたいんでしょうね。防衛本能から人のことを否定するんだと思います。自分の事がそれだけ大事だと言うことですね。でもそんな人ほど自分のことを否定したりする傾向にあるんじゃないかと、自分を通して感じています。

でもそうでもないのかな。純粋に真面目すぎる人は自己否定を繰り返すのか。死にたくなるほど自己否定するんだからそうよな。他人を否定してないもんな。僕は中途半端なので死にたくなるほど悩むことはないですし、そこまで自己否定したこともない。ある程度のところまで悩んだら「まあえっか」という魔法の言葉僕のことを救ってくれます。悩むことに飽きるんですかね。それとも耐え難い苦痛からの逃避行動でしょうか。とりあえず、問題を解決しなくても死なないと言うことがわかっているので、最終的に「まあえっか」で終わります。いやいやとおもわれることだって「まあえっか」です。この魔法の言葉に対してもいつかそれはおかしいやろと言われたことがあるようなないような。自分に嘘ついていいのかと。自分と向き合って最後までやりきることが大事ではないかと。あとで今真剣にやらなかったことを後悔するよ的なところまで言われたこともあるような気がします。

それは確かにそうだし、すごくわかる。でもそれって自分と向き合うことが正しいことで自分と向き合わないことは間違っているというその人の経験もしくは、世の中的にそうだよってことであって、それが正解かどうかなんてわからない訳で。提案するならわかるけど、説得しちゃうとちょっと違うよねってなるんですよ。それはお前の一意見であるということを認識しておく必要がありますね。そうでもしないとちょっと辛いよね。だってそうじゃないですか。自分と向き合うってことってそんなにみんながみんな出来ることでもないと思うんですよ。そんなことみんなが出来るようになってると、世界は逆に混乱に陥るのではないかと根性論が蔓延しかねないのではないかと。

まあでもそれって僕が逆に自分と向き合うっていう考え方を否定しただけなのかもしれないけど、向き合うことばっかりやってるとたぶん疲れると思うんですよね。向き合うってなんかすごく前向きなように捉えらえてるけど、そうでもないんじゃないかなと必ずしもそういう結果を生む訳でもないし。まあえっかってやっちゃう方が前向きな場合もあると思うんですよ。でもエライ人たちからするとそんなことはたぶんないんだと思うけど。僕はおそらくそういった人たちからすると教育の対象になりがちなタイプだと思う。でも僕はそういった人たちの前では真面目なフリをしてしまうので、ちゃんと怒られたことがないかもしれません。

また今日も良く分からんかんじになってきて、毎日自分へのエールを送っている訳なのですが、これが励みになって生きていってくれれば良いんですが、テキトーに生きたいので、日々真っ当なことを考えずにキャンプ行きたいなということをよく考えています。あと畑どうしようかなとか。大体その二つぐらいしか毎日考えていません。なぜならそうすると幸せだからですね。楽しくなるから。仕事でどうしようかなんて最近考えたことがほとんどないです。まあないこともないのかもしれないけど、その時間はだいぶ減ったように思います。金もらってんねんから考えろと言われそうですけど、仕事中はそら考えていますけど、そんなに深刻にならずに考えるようにしています。そうしないと僕の場合は仕事を継続することが難しいと最近感じるようになったからです。それぐらいのスタンスで取り組むようにしています。それが良いのか悪いのかはわかりませんが、今のところクレームが来ていない所をみるとそれなりなんでしょう。僕が100点を目指したところで到底到達することは無理なので、というか100点なんてテストで設定された問題以外で現実的に存在するのか定かではありませんが、そこ目指したところで余計にしんどくなるだけ。というか点数化するととてつもなく辛さを感じるだけなので、そっとしておいて、感覚に任せて流れにのっていけたらいいんじゃない、っていうぐらいでノリノリな方に照準を合わせてテキトーに適度に生きられたらなとおもっているのです。

大丈夫、きっとうまくいくよ。

という言葉がある限り大丈夫なような気がしています。

言葉というもんがあるおかげで生きられているようです。ありがとう。

この記事でようやく100記事達成しました。

自分ながらにそこまでやったかと。

誰にもリーチしてない僕の文章ですが、ほぼ毎日書いて良くやってるなと思います。

誰からも頼まれていないことを真剣にやることほど楽しいことはないのだなと。

制約がないのがいい感じです。

僕にはそんな仕事がいいような感じがすけど、どうでしょう。

雇われるのか自分でやるのか。

そこまではっきりと線引きする必要はないと思うんですけどね。

でも線引きたい。曖昧が苦手なのかもしれません。

曖昧=空気読む的な感じなんです。

空気読むの苦手なんですよ。

もうこの辺で今日は時間となりましたので、また。

テキトーに自閉するとちょうどいい。

テキトーに書いて来ていつの間にか今日ので99記事目。

何やかんやですごいなと自分で思う。毎日これだけ書くことがたくさんあるんだと。でも思えばほとんど自分の経験を書いているだけなので、そんなに大したことないと言えば大したことない。だって僕が生まれてからもうすぐ36年になるのですが、文字数だけで言えばとんでもない数の文字数と出会ってきていると思う。経験を文字数で表現するの意味わからんけど。1分間で数100文字ぐらい話できるんですかね。忘れてしまった、1分スピーチ職場の朝礼で勝手にやってた時に調べたんやけどな。そうそう、前職で朝礼で勝手に3分スピーチやってたんですよ。ほぼ毎日あれ何カ月やったのかな。1カ月ぐらいやったかな。下手したらもうちょっとやったかも。ちょっといいですかと、明日から毎日スピーチしていいですかと。もちろん目的はあって、何か月後かに会社全体の事例報告とか部署のアピールみたいなことをやるとかいうイベントがあって。それは会社ないだけではなくて、社外の人も招いて会社紹介するみたいなイベント。そこで僕が所属している部署のことを僕が話をするということになったので、練習する機会が欲しいと思って、朝礼で勝手に始めました。こいつ何言ってるんやろみたいな感じで周囲からは見られていました。頑張って毎日人前で面白いそうなネタを考えて、話していました。

だから1分で数100文字話せるということは、僕はこれまでに36年か生きてきたので、

36年=36×365=13140日

13140日=13140×24=315360時間

315360時間=315360×60=18921600分

ってなるのかな計算が正しいかよくわかりませんが。

ということは、文字数にすると

1分=200文字とかにすると

18921600×200=3784320000文字ということになります。

良く分からない数字ですけど、でこれを1記事1000文字とすると、

3784320000÷1000=3784320記事

ってことになるんじゃないですか。

ということは僕は今日で99記事目とさっき言いました。

これから毎日1記事ずつ書き続けたとして3784320日かけると言うことですよね。

最早なんの計算をしているのかよくわからなくなっています。

3784320日とは年に換算すると、

3784320÷365=10368年

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この計算あってんのかな。ほんまに何を書いているのか全く分からなくなってきましたが。もしこの計算が意味のある計算だとしたら、僕は死ぬまで飽きることなく、毎日文字を書き続けることができるということになり。これは幸せなことです。文章書くことが好きな僕にとっては何事にも代え難いことだと思います。ネタが尽きることがないということですよね。つまり。それだけ毎日いろいろなことが起きているはずなのに、情報を他に入れる必要があるのかなということが結論的には出てくるわけですよ。僕の場合は。何を言いたいかと言うと。特に言いたいことがあるわけではないですけど、劇的な毎日ではなくても文章で表現するとなると膨大な文字数を僕は毎日経験している訳です。いやどういう意味?意味わかりませんけど。そうですよね。今もこうやって文章を書いている時に、「外で車がブーンと走って行きました。たぶん軽自動車のようなエンジン音だったと思います。結構回転数上げてたんじゃないかな。」みたいな意味のわからん文章ができあがる訳です。経験している訳です。だから何なのか?いや何の意味もありませんけど。ちょっと気をつけたらその辺に色々と転がっているなと。興味の対象がということです。

意識を少し違うことに向けたらいくらでも興味の源泉はある訳で。その興味の源泉って別になんでも良いと思います。

昨日だって僕はお気に入りのコーヒー豆屋さん。こんなジャンルのお店があるのかしれんけど。そしてお気に入りと言いつつも、まだ豆を買ったのは2回目の店なんですが。

その店で焙煎しているウガンダのコーヒー豆を買いました。今まで飲んだことなくて美味しいんです。豆で買っているものですから、飲むためには豆を挽かないといけません。そうすると何で挽くのか調べますよね。調べてみると機械で挽くのか、人力で挽くのかという選択肢が出てきました。どちらが自分にあっているのか選択しますよね。そこでまた調べますよね。どちらか選んだら次はその道具、所謂ミルですが、そのミルは色々なメーカーがありますから、どこのメーカーが良いのかどういう特徴があるのかとか。まあ調べ出したらキリがないぐらいに色々と情報があふれている訳です。まあこれは全てインターネットに接続して調査している訳ですから、僕も完全にインターネットを断つことはできません。便利だから。でもこうやって興味対象を軸に情報を得ようとすると無駄な映えとかあんまり目に入りにくい。僕はコーヒーを美味しく淹れるために調べているので余計な情報が入りにくい。能動的に行動しているので、なんかたのしいんですよ。でもただSNSをひたすら見ているだけだとそういう気持ちには中々慣れない。あとはテレビも同じ。テレビを見ていても能動的に何かをやっているという感じは全くない。そうなると見終わったあとに何も残らなくて、何やってたんやろってなる訳ですね。僕はそうやって多くの時間を過ごしてきました。でもテレビ大好きですよ。

能動的に何かをやるということがやっぱり大事なんだなと思います。すごく楽しいです。だって能動的にやるということはやりたくてやっている訳で、義務感もないし辞めたかったら辞めたらいいし。飽きればやめたらいいだけ。飽きることに否定的な気持ち湧きません。あー飽きっぽいって自虐的に言ってたけど、実はそう思ってないですね。人前で言う時に何も続いていないと言うことがすごくマイナスに思っていたけど、自分で決断して始める・辞めるって選択できていたということですね。

今日は何を言っているのでしょうか。計算しだしたところからまあまあおかしくなっていましたね。ここまで文章を書いてきた訳ですが、タイトルをまだ決めていませんでした。今日のタイトルをどうしましょうかね。

僕はいつもタイトル、テキトーなんですよ。だからタイトルと文章が結構関係ないことになってしまったすることもあるんです。というかほとんどそうかもしれない。タイトルって多くの人に読んでもらおうと思うと結構大事だと思うんですよね。でもそう思ってないからいつもテキトー。ということで今日のタイトルはテキトーに自閉するってことにします。

ここのところ自閉するということがテーマのような感じになっているけど、決してそうではありません。とりあえずめんどいから自閉という言葉を使っているだけで特に意味はありません。でも書いているとなんとなく自閉と関係がありそうな文章も出てきます。予期せず出てきます。それがまた面白いですよね。やっぱりどこかで意識ている部分もあるかもしれません。無意識ですけどね。そういうのが自然とでてくるから文章を書くのは面白いのかもしれません。昨日確か独り言がひどいって言ったのを思い出しましたが、壮大な独り言をずっと書いているのかもしれません。でもそれぐらい人って色々と勝手に言葉出てきていると思うんですけどね。僕は実際に声に出して言うのが苦手なのでこうやって文章を書いている訳ですが、現実世界で声に出して言えている人は別に必要ない世界だとは思いますが、文字の世界というのは誰にでも開かれていると思うからありがたいなと最近つくづく思います。

大丈夫、きっとうまくいくよ。

と無理矢理今日もこの辺で終わります。

いつも最後終わらせ方がよくわかりません。

実際には終わってないですもんね。

明日も今日の続きですからね。

よくわからんけど。

自閉するということについてもう少し書いてみる

昨日もひたすら書いた訳ですが、今日もなんとなく書きたくなってきた。いやなんとなくではなくて、まだ書き足りないことが僕の中であったからそれを出し切ってスッキリしたいのかなと言うことでまた書きます。ウンチが中途半端に残っていると気持ち悪いですもんね。ウンチは出してこそ価値がありますから。腹の中に残っているウンチは臭いガスを放出して、おならになって、自分だけでなく周囲の人にも嫌な気持ちにさせますのでしっかりと出し切っておきましょう。と書き出し勢いよく出ましたが、何について書きたかったのかすっかり忘れてしまいましたので、下記ながら思い出していきたいと思います。

自閉について昨日はどんなことを書いたか正直はっきり覚えていないのですが、だから今日も重複することが多々あるかもしれないけど。まあそれは大目に見てやってください。大目に見てやってくださいの「大目に」ってなんか改めて考えるとすごいですね。だって「大目」ですよ元々目が小さい人はどうするんだって話ですよね。その小さな目をかっと開いてにこやかに見守ってくださいということですかね。そうか、怒るとみんな目つきがきつくなるから、そんなことせずににこやかにってことか。でもにこやかな時の目の感じもきつくはないけど大きくもないよな。むしろ目細くなってるから、小さいと言うことはどういうことなんでしょうか。

というようにですね。勝手に中から中から訳の分からないことがどんどんと湧き上がってくるんですよね。生きていると。その謎の疑問に答えようとすると、外から情報を入れている場合ではないんですよ。まあそれは僕の場合であって、僕以外の人がどうなっているのか調査をしたことがないのでわかりませんが。この謎の疑問を坐禅界、まあそんなものが存在するのかわかりませんが、座禅界隈としておきましょうか。座禅界隈の人たちから言うと雑念というのでしょうか。この雑念が絶え間ないんですよ。すごいの。以前に話したと思いますが、僕は一度だけヴィパッサナー瞑想センター?施設の正式な名前は忘れましたけど、ヴィパッサナー瞑想というのを経験したことがあります。その時に瞑想をするのですが、すごく色々なことが気になって、中からどんどん言葉が出てきてしまうというのを講師というのか、みんなの前で皆の方を向いて坐禅をしている方に質問をしたことがあります。で、その時に言われたことはたしか「それは辞めた方が良い」と言ったようなことだったと思います。そらそうだ。辞めた方がいい。ていうか辞めれるんだったらこんなこと聞いてないよと思うのですが。その時に感じたのは僕は現在の状況を実況中継してしまうんですよ。そう実況中継のような感じ。今も文章を書きながら、貧乏ゆすりをしているのですが、無意識でしていることをなんとなく観察してそれを頭の中で文字にしてしまうのです。してしまうのですというか、しているらしいのです。

別にこんなことしたいと思っていないのですが、勝手にいつの間にか、いつからか結構している。外に出ない独り言みたいな感じですかね。だからこうやって文章を書いているのもある意味でいうと独り言を文字に起こしているような状態なのかもしれません。言葉が勝手に出るからそれに任せて書いているような状態です。これが創造的なこと、芸術的な言葉であれば僕も作家としてもしくは詩人として食っていけるのでしょうけど。普段日常で使っている言葉以外全く中からは出てきませんので。チクショーと悔やむわけなのですが。

まあ、そんなことは置いておいて。いや置かなくてもいい、このまま続けましょう。そんな感じだから、その流れとかそういうのが全く考えられないので、ひたすら文章を打ち込み続けてしまいます。そのためにどこで改行したらよいのかわからなくて、読みにくい文章になってしまっていると思います。

一応大学受験する時に推薦も受けて、その試験科目の一つが小論文だったので、人に伝わりやすい文章とはどういうものかというのを勉強したはずなのですが、全く覚えていません。句読点の位置とかもっと読みやすいところがあるんだろうとは思うのですが、適当に入れています。たぶん僕の文章は句読点。特に「、」これが必要以上に多いように思います。「、」これが句点ですかね。読点かな。どっちかわからんけどとりあえず、たぶん点が必要以上に多いと思います。僕の息継ぎするタイミングがそこなんです。読み方が下手なのかな。ざーっとスムーズに読みあがるのが苦手なのかもしれない。

でも小学校の時の本読みは上手だと言われていました。そうなんです、また思い出しましたね。僕は小学校の時はきはき読むし、声も良かったのか。本読みは褒められていました。今考えるとなんで本読みなんか授業でやったのかなと思いますが。そのせいで僕はいつまでたってもその読み方から抜けられず、声に出して読むスピードでしか本を読むことが出来ません。そのため、速読が全くできません。やろうと思ってもどうしても心の中で読んでしまう。視覚情報ではなく、聴覚情報として文字を捉えてしまうのです。そうかだから現在起きてることを実況中継してしまうのかもしれない。見ながら読みながらということをしているのかもしれません。その時起きている状況を文字にしているのかもしれない。すごく無駄な脳ミソの使い方をしているようです。驚きです。効率悪すぎです。視覚情報だけを取り入れたらいいのに勝手に聴覚情報に変換していました。すごいロス。だから情報処理が遅いのだと言うことが良く分かりました。あーそうかーすげぇことに自分で気づいてしまった。そら仕事が遅いわけですよ。僕は本当のところ視覚情報で物事を判断していることが多いと思っていたのですが、違うんですね。結構聴覚情報。いや違うな。聴覚情報ではありませんね。視覚であることには間違いないのですが、見たまま判断すれば良いことを勝手に文字として読んでいるのかもしれない。

自分でここまで書いてきて全く意味わからないんですが、見えるものを文字化しているのかもしれませんね。どういうことかな。茶色のものを見て茶色やなと読み上げている。これって誰でもやることかな。パソコンを見て、「これパソコンやなシルバーやな四角いなかっこいいな」とかっていうのを一々行ってるんですね。やっぱり実況中継してます。

視覚とか聴覚とか文字化するとかそれっぽいこと言うてますが、実況中継=独り言をひたすら言っているようです。ひたすらに。そうかそれがいつも冷めたような感じになっていたのかと今気づきました。人の話を聞いてもその状況をずっと心の中で何かいうてるんですよ。合いの手入れたり、ツッコミ入れたり、関心したり。会話せずにずっと独り言を言ってたみたいです。だから何か発言した時に自分の中ではひたすら独り言言っているかある程度、話進んだっぽい感じで話するけど、伝わってないってそういうことだったんですね。それでイライラすることあったけど、自分の独り言を話していないということを忘れていました。

そう言えば昔「さとられ」だったかな、なんか自分の心の声が全て漏れているっていう映画があったような気がします。タイトルあっているかわかりませんが。どんな内容で、どういう結末なのか映画見ていないから知らんけど。もしそんな状況になったとしたら、僕は生きていけないなと思いました。だってこれだけひたすら独り言言っちゃっている訳ですから。僕の思っていることだだ漏れですよ。そんな状態になると引きこもるしかなくなりますよね。でもこの引きこもるというのは自閉っていうこととは違うかなと思う。

坂口恭平さんの本で書いてあった、「自閉」ということがどういうことだったかは忘れてしまったけど。そうです僕本読んだらそこで終わりですぐに内容忘れるんですよ。ほんで適当に解釈して、あの本にはこういうことが書いてあったなとか言って、勝手に良いように捉えています。そう、僕の本の読み方はそんな感じで。楽しかったらそれでオッケーで、何かを得るために本を読むって言うことがあんまりないかも。本読むことって楽しいから読んでるだけで。そう、僕本読むの好きなんだなと思いました。最近。最近までの本の読み方って何かをその本から得ようと思って、読むことが多くなってて読むの苦痛になってたんですけど、ある人からこの本面白いよって言われた本をただ勧められたから読んだだけで、何かを得ようとせずに読むと純粋に面白かった。僕はそういう出会いを求めているのかもしれない。

良いと思うから行動して結果どうか。みたいな出たとこ勝負みたいな感じが好きなのかもしれない。

あー違うなこんなんちゃうねん。今日のテーマ自閉することについてやのに。

自閉って、その引きこもるとかそういのではないということやと解釈しています。

かと言って自分とひたすら向き合い続けるということでもないとも思っているし、僕は自分と向き合うと言うことをひたすらに避けてきた人生を送っているので、そんなことできるはずもありません。そんなことしない。したくないし。なんせそんなことして楽しくないでしょ。だから僕の自閉はそんなんじゃなくて、ひたすら読み上げていることを聞いているというか。実況中継を聞いているというのか。それだけでも忙しいんですよ。にも関わらず外からの情報を入れると言うのは結構大変だと言うことが最近分かってきました。インターネットに接続する機会が減ってそれは改めてわかりました。外からの情報に対応し続けていると。別に意識して対応している訳ではないんだけど、無意識に対応している訳ですが。それが続くといつの間にか僕の脳みそは疲弊しているようです。なにせ容量が狭いので。そうなってくると昨日の事とかさっき言ったこととか結構忘れるんですよ。昔は記憶力良いって言われてたんですけどね。記憶力には自信があったし、記憶力が必要な科目は得意でした。社会は結構得意。科目ではないけど、漢字も検定は受けてないけど、いつも漢字のテストは得意でした。覚えるのが何よりも楽しかったと言うこともありますしね。そうや確かにひたすら記憶するの好きやった。漢字なんて書くのめちゃ好きやったもんな。なんでやろ。算数のドリルとか他の科目のドリルあったような気がするけど、漢字ドリルが一番好きやったもんな。あれはなんでやったんやろう。形が好きやったんかな。忘れたけど。こうやって書いていると結構思い出す。

そう自閉して外からの情報を減らすとこうやって色々と思い出すことが増えたんですよね。それとあと自閉するだけではあんまり良くないのかなと。入れる情報が減っても出すもんは出した方が良いと思うんですよ。断食と一緒で、食事を断っても、出るもんはでるからウンチはしっかりとした方がよい。ウンチに限らずオナラもオシッコも出した方がいいんでしょ。代謝しないと身体が悪くなります。そうなんですよね。基本中の基本ですね。健やかな身体になろうと思うと入れたら出す。と言うのが当たり前のこと。これは絶対ですね。絶対なんてこの世にはそうそうないけど、これは絶対。呼吸は吸ったら吐く、水は飲んだらオシッコで出す、食べ物食べたらウンコだす。情報入れたら、何らかの形で出す。そうすると健やかになってきますね。

僕の形としてはインターネットに接続する頻度を減らして、勝手にする実況中継に合わせてこうやって文章を書くと言うことがウンチです。

大丈夫、きっとうまくいくよ。

これを言い続けて、書き続けて、健やかな身体を作っていきたいと思う次第です。

今日も結構書いたな。

文章を書きだすととまりませんね。

この辺にしておきます。

自閉してみて少し楽になった

雨の降る朝はいいです。暗いから。暗いと静かな感じがして心が休まります。雨の音もなんかいいです。昔誰かがそんなこと言ってたような気がします。誰が言うてたか知らんけど。でも実際に早起きして静かな環境だとそういったことも感じることができます。朝の時間に活動することは気持ちいいです。こんなに気持ちいいと思いませんでした。朝起きるのは嫌で仕方なかった。行きたくない学校に行ったり、会社に行ったりしないといけないから。朝起きるのがとにかく嫌やった。でも仕方ないから起きるということをしてたら、2度寝・3度寝は当たり前でめちゃくちゃ身体がだるかった。でも朝に日課を作ったら嫌でなくなった。朝に勉強しようとしてた時もあったけど、続いたためしがなかった。勉強ってしなければならないことで、したいことではなかったからかなと今は思う。

日課が熱い(坂口恭平氏談)らしく、僕もその熱い日課に取り組むことにした。とりあえず朝何をしようかなと思って、考えたらこのブログをちょうど始めたところで、このブログをやってみようと。ブログは例のごとくやらなければいけないようなことではなくて、自分の思いのたけを吐き出す場所にしてたからむしろ、日々の中でどこにこの時間を作るかと言うのを検討していた時期だったのでちょうど良かった。ブログをまず初めて、でも朝早く起きようと思うと早く寝ないといけない。そうなると会社から帰ってきてからテレビ見たり、ネットサーフィンしたり、勉強したりとかっていう時間が中々作れなくなるからどうしようかなと。必要なことしないとちょっと不安な気がした。まあテレビとかネットは別にどうでもいいけど、勉強しといた方がいいかなと思ったりもした。しないといけいない。仕事のためにはした方がいいに決まっている。そういう仕事やし。と思って逡巡しましたが、思い切って全部やめることにしました。

そうなると毎日22時ぐらいには寝れるようになりました。淡路に来てから夜寝るの早くはなってたけど、毎日23時とか24時頃に寝ていたので、22時ってめちゃ早い感じがしたけど、翌朝めちゃすっきり起きれるようになりました。自然に。日課が楽しみと言うこともあるけど、それ以上に身体が楽ということに気づきました。当たり前のことかもしれないけど、実際体験してみると結構気持ち良い。むしろなんで今まで気づかんかったんやろというぐらいに気持ち良い。そうなると自然と早く寝ようと。寝るための準備を優先するようになりました。

結果、自閉することになりました。寝るということを一日のスケジュールの軸において、予定を立てるというのか行動するようになりました。そうすると仕事はなんとしても早く帰る。人と無駄話をしている場合じゃないと言うことになり、定時でどんどん帰れるようになりました。定時厳守です。なので、定時で帰れないとなるとちょっと気分落ちますけど。ほぼ毎日定時です。そして、自宅に帰るとその時間に合わせて妻が晩御飯を作ってくれているので、食し。そして翌日の弁当の準備。

そうです。弁当を作ることも日課の一つですね。これは最近始まったことではなくて、独身時代から続けている日課で。翌日持って行く弁当を前日に用意するというものです。毎日ほぼ内容は同じ。ある意味でこれも自閉かもしれません。必要以上に色々なものを入れすぎると考えないといけません。料理は創造と書いてありましたが、僕にとっては弁当は栄養補給の一つでしかないので、ある意味でエナジーバーと同じ扱いです。

カロリーと空腹を満たすということを主目的においています。なので、内容としては、白米、梅干し、胸肉、たまねぎ、ニンジン、青物(だいたいピーマン)。これで終わりです。調理方法もほぼ同じです。胸肉を鶏ハムにするか、野菜と一緒にコールドスタートで料理するか。あとは微妙に味付けが違うぐらいでほぼ同じです。

飽きません。飽きやすい性格なのに飽きません。それが不思議です。食事においては飽きたことが無いかもしれません。一時親子丼作ってみたり、別のものを入れてみたりしましたが、飽きます。めんどくさいからです。そうです。僕の原動力は楽しいか楽しくないかと、めんどくさいかめんどくさくないかです。文章を書くのは何の練習もいらないし事前に準備をするものもないし、手も汚れることないし、後片付けもいらないから。めんどくさくなくてよいのかもしれません。続いているのかもしれません。手軽に出来ると言うことが僕にとっては何よりも大事なのかもしれません。プロセスを重視してこなかった。僕ですから少しでもプロセスが必要なものは継続性が無いのかもしれません。上手い下手とかそんなことではないようです。他人ともそんなに比較していないのかな。別にいいはと思えるものだったらなんでも続きそうやな。

というか今日は「自閉」することについて書きたかったのにまたもや関係のないことを書いてしまっているな。どうしてもその時に思いつくことを思いつくままの順番で書いてしまう。悪いくせとは思ってないけど、読む側からしたら読みにくやろなと思う。タイトルと関係あることが中々出てこない訳だから。

気を取り直して「自閉」ですが、何を自閉したかというと人との関わりが一番大きいかもしれない。今年に入ってコロナウィルスの蔓延に伴い、会社の事務所の利用が制限されるようになった。そのため朝礼がなくなり、事務所での事務作業と言うのがほぼなくなった。そうなると会社の人と顔を会わせる機会が少なくなった。これは自ら行動した訳ではなく、たまたまそうなっただけだけどこれが僕にはすごくぴったりで最高の労働環境になったという訳。ここにそんなにストレスを感じていたとは思わなかった。人と関わることはあまり好きではないけど、嫌だったんだなと改めて認識できた。これからもずっとこの働き方が続くのであれば僕は今の仕事を継続できるかもしれない。仕事が嫌だった部分は会社の人と関わることが一番大きかったんだと認識できて気持ちが結構楽になった。

事務所に行く機会が減ったために、定時で退勤することが全く気にならなくなった。あと朝礼にはいつもギリギリに行っていたのだけど、理由としては朝礼までの時間が手持ち無沙汰だから。人と話をするのもめんどくさいし。かと言ってじっとどこかを見てその時間を待つのも嫌やし。携帯をずっといじって待っているのも嫌やし。みたいな感じでとにかく苦痛やったので。会が始まる直前に行っていた。そうなると中々準備をする時間が無くて、結局あんまり準備が出来ず仕事に向かうことになっていた。でも今は朝礼がないので、訪問車に直接向かい。その中で出発の時間までその日の準備が出来るようになったから、結構楽で。仕事でのミスも減った。ように思う。余裕が生まれている。

自閉することで人との接触を必要以上にしなくても良くなったのは大きい。

それに定時で帰り、夕食、入浴、日記、ちょっと筋トレっていう風に日課というのかルーティンをこなすだけにすると家でも情報に触れる機会が少なるからそれもまた最高。

テレビとかインターネットに接続しているといらん情報が溢れすぎている。面白いこともあれば面白くないこともあるし、イライラしたり、気持ちが悪くなることだった勝手に情報を投げつけてくる。見ようと思ってなくても、不意にそういう情報が飛んでくる。んで、それに興味が湧いてみてしまうことがあって、別に見たい訳でもないのに無駄に時間を使ってしまうことがあって、すごくがっかりする時がある。そういうのがすごくもったいなく感じてしまっていたので、自閉して良かった。何もすることが無くて、テレビやネットを見てしまうということをよく聞くけど。何もしない時間があることのありがたさというか、贅沢さを最近感じられるようになってきた。何もしない時間には僕は身体をなんとなく動かしたりしている。別にヨガとかそんなたいそうなことではなく、それこそ無駄に身体を動かしている。この時間の方が僕の健やかな生活を作る上ではよっぽど良いことだなと思えるようになった。

あて自閉したこととしては仕事の勉強というか、勉強全般を辞めたということ。人生において勉強することは何よりも大事なように言われている。それは成長ありきだということ。成長するためには必ず勉強が大事であると言われるし。別にそれは成果を上げるためではなくても人間的成長を促すために大事だと言われている。いや、実際にはよくわからないけど。そんな気がする。成長しない人間は非人間であると。だから、勉強は死ぬまでしなければならないという気持ちがすごくあった。勉強している人間は素晴らしい。していない人間はだめなやつだと。そういう風に他人を見ている僕もいたように思う。この考えにとらわれ過ぎて、勉強してない日が続くと「また勉強できてない、あかんわ」って心の中で思っていました。ダラダラ過ごす休日があってあっという間に一日が過ぎた日にはほんまに後悔していました。

でも今はそんな辞めました。しなければならない勉強などないと言い切りました。したい勉強はあるかもしれないけど。しなければならないものなどないと。そうするとすごく楽で興味のあるものだけ調べたりするようになりました。そうするとすごく楽しいです。

その結果今興味あることとしては、朝の土鍋で米を炊く、鉄瓶で湯をわかす、ブログをかく、日記をかく、コーヒーを淹れる、キャンプする。です。今のところトピックとしてはこんなもんです。あと畑もあった。こんなもん。これ以外はあんまり目が向いていないです。辞めるとしたいことが少しずつわかってきた。あと身体動かすこともいいと思える。

まあこんな感じで辞めると出るということで。適当なインプットを減らして、アウトップトつまりウンチをする機会を増やすとスッキリして気持ち良いと言うことですね。

大丈夫、きっとうまくいくよ。

ほんまにそうです。自閉しても大丈夫ということが良く分かりました。自閉したことで時間的余裕が生まれ、精神的にも余裕が生まれています。

自閉をもうしばらく楽しみます。