いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

普通という幻想

普通って嫌やな。

いつからこんなこと思い始めたのかなと遡ってみますが、あんまりはっきりしないんですよね。でもなんかみんなと同じって嫌なんですよ。すごく小さい時からそんな風に思っていたような気もするし、社会人になってから思い始めたような気もするし。とにかく嫌だったんですよ。今はそんなに気にすることはなくなってきたかと思います。普通って思えることって最高やとさえ思っています。感謝ですよね。

何が普通かってことなんですが、これは完全に個人的基準であり、基本的には他の人には当てはまらないものだと思っています。まあこの前提をおいた時点でかなり偏った考え方であり既に普通ではないのかもしれませんが、僕にとっての普通は、それなりの生活です。

まあそれなりの生活と言うものが既にあいまいであり、基準にならないのは百も承知です。それなりの生活というのは僕の人生ぐらいのことではないかと常々思っていました。僕の生活は平均的であると。僕の経験値も平均的であると。そう僕は平均的であるということがまず普通の基準の一つにあるかもしれない。しかもこの平均完全に僕基準であるということがまたポイントなのですが。だって平均なんて測定したことないですからね。平均年収とかは調べたらわかるかもしれんけど、生活の平均とか経験値の平均とかって数値化するのが難しいですよね。出来るんかな。出来ると言う人がいれば是非ともご教授願いたいです。僕の考える平均と比較してみたいと思うから。

まあ僕の平均的とは、小学校から高校まで通う。なんか部活やる。ほとほどに友達がいるということですかね。これも人によっては満足して出来ない人もいるということを大人になって知りました。ふざけてますよね僕って。自分の人生十分改めてみると満たされているはずなのに当時は全く思ってませんでした。

家族構成も僕は普通だと思っていました。父親、母親、姉、兄、僕の5人家族でした。平均的じゃないですか?すごくバランスが取れた家族構成だと思いませんか。これが僕の普通。でも両親がいることとか兄弟がいること自体が当たり前でもないですからね。思わぬことで両親のどちらかもしくは、どちらもいなかったすることもあるし、一人っ子だってある。兄弟が多いところもある。果たして僕の思う普通とは何なんだとなりますよね。全く持って個人的見解であり、どのような場面においても当てはまる部分はない。

そして父親はサラリーマンでした。これもすごく普通だと思う部分。スーツ着て毎日電車に揺られて仕事へ行くということが普通の大人だと思っていました。こんな大人にはなりたくないなと。別に父親を否定している訳ではないのですが、同じような服所謂スーツを着て、同じ方向の電車に大量の人数で乗って、歩いて会社に向かうということが当たり前に行われているのが違和感を感じていたんですかね。

普通とは違和感の象徴なのかな。みんな同じようなことをやっているのが変に感じたのかな。良く分からなくなってきましたが、普通の話してたのにみんな同じとかいう話になっていました。結論のでない旅がまたここで始まりました。

普通と一般的を混同しているのかな。それもまた違うんだけど。ただ自分の人生を否定したいだけかもしれない。僕の人生を普通だと決めつけて、面白みのない人生を送ってきていると。単純な自己否定をしたかっただけかも。そして面白みがない=普通と決めてつけている感じ。劇的なことがない人生=普通=面白みがない=僕みたいな方程式が僕の中で築き上げられている。そんな感じがする。ほんど説明するのがめんどくさいから普通と言う言葉でまとめて行ってしまている。

でも普通と言うのは本来存在しないような気もしてきた。それぞれ違うもんなと思って。僕と同じ家族構成で、同じ町で育ったやつでも、僕と同じ道を歩んでいるやつなんて聞いたことはない。それに同じような人生送っていても考え方が同じになるかどうかもわからない。僕の普通はただ単なる自己否定のすごく矮小化されたつまらない幻想だったということが良く分かりました。

でもこの普通と言う言葉にすごく悩まされてきたというか。たぶん誰かに言われたことがあるんじゃないかなと。お前って普通やなって。そんな気がする。それがどこかでひっかかって引きずっているのかも。普通=ダサいという方程式も自分の中であるんですよ。ほんで流行=普通っていうのもあって、新しい物好きではありつつも流行にはまず乗らないようにしていました。流行るって別に自分の中で流行ってるわけではなくて、世の中的に流行ってるだけやし。世の中で流行っていることって誰かが作為的にしたものだといつ日からか思っていて。自然発生的に同時に日本中で何かが流行るっておかしいですよね。どんだけ島国で小さいからって言ったって、そんな同時に流行らんでしょと。それは誰かが流行らそうとしているから流行っているだけで、そんなんおかしいってってたぶん思っていたんだと思います。というか今思いました。ほんで流行=普通でもありますよね。だってみんなやってんだもん。となるとまた話は戻ってみんなやっている=普通に戻ってくるな。大量のサラリーマン=みんなやっている=普通という方程式も成り立つようになってきた。一般的な家庭=まるちゃん=サザエさん=うちの家族=普通と言うのも成り立つような気がしてきた。一般的な家庭=中流家庭=普通。中流家庭=作られた幻想=つまらない。みたいなことも言える。

ということは普通という言葉が嫌ではなくて、人が作った概念というか基準というのかな。それが嫌と言うことですね。だんだんとわかってきた。ということはですよ。僕はこの年になるまでそんな中学生みたいな思いをずっと持ってきたのかということなんですよ。恥ずかしいなと同時にまだまだ死んでないなとも思う訳ですよ。こういうしょうもない子供みたいなひねくれた考え方ってずっと持ってた方がいいと思うんですよ。なんかしら大人になったら、空気を読んで和を乱さずスマートに生活するというのがよしとされているような空気を感じる訳ですよ。空気は読めないけど、感じることは僕だってできます。というか出来ているような気がしています。ていうかスマートって何ってわけですよ。それが良いって何って。こういう風にすぐにかみつきたくなる訳です。悪い癖なんですよ。

そう普通にしといたらええねんって。いつか言われたんですよ。普通にするって何ってなりません。どうしたらいいのか聞いているのに、答えが普通にしといたらいいって。どういうことよって。そうそう。そういうやり取りが小さい時にあったんです。そこから僕の中では普通とななんぞやとと言う旅路がスタートした訳ですね。ありもしない。普通、ある意味でいう幸せの青い鳥を探すようなもんですよ。ありもしないんですよ。そんなことをしていたせいでもう30歳超えましたよ。30の半分ももう少しで超えるんですよ。すごい人生ですね。普通を探求する人生ってなんなのよって。どんだけ徒労人生なんだって話ですよね。こんな幻想に苛まれていたかと思うと悲しくて悲しくてとてもやりきれないですよ。あの歌いいですよね。パッチギって映画で知りましたけど、いい歌でした。そしてパッチギの時の沢尻エリカすごくかわいかったです。普通な素朴な感じで。出ましたよ普通が。沢尻エリカのどこが普通やねんって話ですよね。あんな顔そうそういませんよね。そうなんですよ。普通って僕の口癖かもしれないですね。普通3段活用ぐらいあるかもしれません。否定の普通、合格点の普通、褒め言葉の普通。色々あります。ということは僕の中での概念では普通というのは必ずしも悪い意味だけではなと言うことですね。凡庸を象徴するような言葉でもありつつ、汎用性の高さがあるすごく興味深い言葉であるということです。

これは普通の哲学とか言って突き詰めてもいいかもしれませんね。まあやりませんけど。というかもしかしたら既にやっている人がいるかもしれないし。僕はおんなじことを深く突き詰めるのできないから。哲学なんてできないし。

まあそんなこんなで朝も早くから記事を二つも書いてしまった。書いてなかった分溜まっていたのでしょうね。やらないと溜まりますもんね。それと一緒です。どれとかわかりませんけど。これがわかる人は普通です。普通そうなりますからね。

まあそういうことのしておきましょう。

今日もグルグルブログをお読み頂きありがとうございます。

いつも思うけどこれ最後まで読んでる人おるんかな。

この文章を最後まで読み切れるというそこのあなたは駄文を読み切れるほどに余裕があるということ。ということはそれなりに満たされているということだと思いますよ。

だからこそ、大丈夫、きっとうまくいくよ。なんですよね。

文章を最後まで読めるってそういうことだと思うんですよ。

文章ってそんな余暇的なもんだと思っています。

その人の人生を変えるような出会いもあるかもしれないけど、なんとなくテキトーに読めるのも文章の良いところなんじゃないかなと思っています。