いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

悩みのもと

朝早く起きてブログを書くようになってから、元々少ないPVがさらに減りました。ほぼないぐらいの日が毎日続いています。そう考えるとたくさん読まれている人はすごいなと思います。それだけ人の興味を引くような内容を書いているんだなと。色々と工夫して書いておられるんだなと感心するばかりです。僕とたくさん読まれている人とどんな違いがあるのか調べたことはありません。特にたくさん読まれたいと思わないからですね。これに関しては他人と比較すると言うことはないです。ただただ楽しいからかもしれません。文章を書くのが。確かに多く読まれるとやる気に繋がるのかもしれませんが、文章を書くことにおいてはそれが直接的にやる気に繋がっているというよりは、自分がやりたくて、面白くてやっているだけだからなんとも感じない。焦りもないし、嫉妬もない、だから楽に書けています。これが他人と比較したり、数字を増やすことを意識し始めると苦しくなるんだろうなと思う。誰かに向けて書いている文章ではないので、そんなに気張らずに楽に書けている。

毎日がそんな感じやったらいいのになと本当に思っている。他人と比較しない楽しいことだけやって暮らす。人生は修行やとか思って毎日生きて行くのは僕にとっては窮屈でしかない。そんなこと意識しなくても生きてれば何かしら起きるから。何か起きた時以外はゆーっくり、テキトーに暮らしていたい。それが何よりの望み。何か行動を起こすといつもとは違うからどうしてもストレスが生まれるのは当然のことと思っているので、行動を起こす以外の時はそっとして置いて欲しい。変に周りから刺激を与えないでほしい。あんまり刺激を受けないように自閉するという方法を最近は得たのでそれから少し気持ちが楽になっている。これは妙法だなと実感しています。これし出してから気持ちが以前よりは落ち着く。テレビやインターネットではすぐに心を揺さぶるようなことを伝えてくる。そのたびに少しソワソワしたり、こんなテレビ見ている場合じゃないみたいな、不安を誘う。別にそんなに意識することでもないかもしれないけど、ふとそんな気持ちになる時がある。焦燥感結構感じがち。

いつだったか忘れたけど、「いつ死ぬかわからんやん」が口癖だった時があって、その時はすごい衝動的で、何かあると「こんなことしててええんかな」みたいことがよくありました。ただただ気持ちが焦るばかりでやることなすこと、全然手に着かないみたいな。行動はするものの、あとになにも残らないみたいな。それで余計に何をしたてのかみたいな。時間ばかりが過ぎていく。全然成長してないやんというループに一時期陥っていました。自己啓発本読んでいる時がそうだったかもしれない。この類の本を読むとよっしゃやるぞ!みたいな気持ちがすごく出てきて。今日から俺は的な感じで果敢にやることをノートに書くけど気づいたら、やってない。この本は俺には合ってないと言い訳を言って、また次の本を買う。一時的にやる気が出て、すぐに消沈。その繰り返しでした。なんであんななぞのループに嵌っていたのかと今では思う。

今はそう言った本は極力遠のけているのですが、たまに気になって勝手読んでしまう時もある。そうなると焦って行動しないとと思って、なんかやってみるけどまた同じ結果。マジでなんでこんなこと繰り返すのかなとずっと思っていました。

そしてついに昨日この原因に近づくことが出来ました。

原因の大きな部分を占めるのはおそらく、意味不明な上昇志向。意味不明と言うとそれ自体が意味不明なのですが。なぜかどんなことに対してもレベルアップしないといけないと。日々成長していなければならない、昨日の自分より今日の自分の方がレベルアップしていないといけいないという強迫観念。これがかなり僕の首を締めていたのかなと。首絞めているというか、ずっと刃物を首に突きつけられているような状態でしょうか。成長ありきな考え方が強くあって。同じ過ちをしようものならまたやってもた。でも僕はテキトーな人間なので、「まあえっか」「しゃあないしゃあない」と言ってしまうのです。これはもうどうしようもないぐらい言ってしまうのです。口癖とか言うレベルではなくて、呼吸してるぐらいに当たり前に口から出てしまうのです。そうなると一旦終了で。リセットされます。そうなんです。別にレベルアップしなくても「まあえっか」と本心では思っているのに、僕の中で他の誰かが「いやいや、世間的にはそれではあかんねんで!」とその都度言ってくるのでその二つの意見に挟まれて僕は苦しくなっていたのです。それが悩みの大きな要因ではないかなと思っているのです。元来テキトー人間で、そんなにレベルアップしなくても大した問題ではないと思っている僕がいるのに、世間一般的には成長ありき、成長なくして人間ではない、二度同じ失敗する奴は人間ではないという圧力に押されて、考え方が変わっていたかもしれない。同じ過ち繰り返すことなんて別に大したことないと僕は本来思っているのに、周囲からの情報でいつしかその考え方は間違っているという風に思うようになっていたのです。

大勢いの人たちに合う方法であったとしても僕個人にそれが当てはまるかは別問題だから、自分が生きやすいようにやりやすい方法を作っていくこと必要があるなと昨日思ったのです。どうやったら楽に楽しく、面白く生きられるかと言うことを。僕のためにシロオメソッドを開発する必要があるなと思った次第です。

シロオメソッドがどんな風に出来上がるのか楽しみです。

大丈夫、きっと上手くいくよ。ですね。

シロオメソッドもきっと上手くいきます。僕にとってはですけどね。

ハマるということは嵌るということ

かなりハマっています。何にかと言うと坂口恭平さんに。これは恋愛で言うゾッコンという状態ぐらいハマっている。なんのきっかけかTwitter見てたら坂口さんのことを知り、いつの間にかハマっていました。こんなにハマるのはいつ以来かなというぐらいのハマりぐあいです。自分史上最高にハマっている可能性すらあります。最近特別関心の高いことがない僕にとってはちょうど良いタイミングだったなと思います。寝ても覚めても坂口恭平状態です。

でもふと思ったんです。ハマるって嵌るやなと。身動き取れずにそれに囚われているような気がしました。あるハマっているとその対象ばかりを追いかけるような状態になっているなと。ある意味で執着してしまっているのかもしれません。ハマることによって没頭し、その他の刺激を入れないようにして現実世界から逃げているような状態になっているのかもしれないと。対象の穴に嵌って、こもることで逃げている状態になっているなと。対象のことが全てというか、対象が正しいというような状態に一時期陥っていたかもしれない。穴に落ちて嵌っていたのかもしれない。隠れ蓑として活用していたのかもしれないなと思いました。ハマる対象、人であればその人が言う言葉にすごく感銘を受けて、感銘どころから心酔するというのか。その人が言う言葉が全部正しいような捉え方をしてしまう可能性もあるなと。ちょっとおかしくなっていたかもしれません。錯乱状態と言うのでしょうか。勝手に世界を作り出していたかもしれない。

こういうことってやっぱり今までなかったなと思う。心の隙間に入り込んできていたのかもしれない。これは悪さをされたとかそういうのではなくて、自ら求めていたものがちょうどタイミング良くやってきて、それがそのまま居座ったという感じでしょうか。

これが良いとか悪いとかではなくて、そういうことってあるんだということを体験できたと言うことです。

完全にぴしゃりと僕の求めているボールが僕の構えているミットに突き刺さった感じで。それはそれは高揚感たるやすごいものです。奇跡としか思えないようなぴしゃりが来たらそりゃ浮足立ちますよ。奇跡なんて起こるはずがないと思っていますからね。そんな感じの衝撃が坂口恭平さんにはあった訳ですよ。怖いですね人間って思い込んでしまうんですから。浮足立って、フワフワしているわけですからどんな風にもなびく訳ですよ。言っていることが全て正しいと思っているんですね。脳を乗っ取られていると言いましょうか。これこそ妄信的というのがぴったり来ますね。かなり妄信的に言葉を捉えていたかもしれません。でも一時でもそんな経験が出来て良かったと思います。人に感動すると言うことはあんまりないかなと。しかもこんなに同じ人の書籍を続けてよむなんてことは今まで有り得なかったですから。あっちふらふら、こっちふらふらと興味の対象がすぐに移り変わっていきましたからね。そっかそうなんですよ。それを逆に思い出させてもらったかもしれない。僕は一つの対象に入れ込むということはあまり性に合わないはずなのに、ここのところそういことを求めていたかもしれない。だからこそまとまらな人という坂口恭平さんを知ることで、衝撃が走り。僕の理想とする生き方はこれだ!となったからハマったんだと思います。そこが勘違いのもと。この人に入れ込むのではなく、この人の生き方をマネしていろんなことを試していくと言うことを思い出したのに、いつしかこの人の言っていることをやっていれば自分も大丈夫みたいな考え方に変わっていってたかもしれません。

そうではなくて、これからは思い付きのまま行動するという過去に良かった経験を再度思い出し、思いつくままに行動すると言うことを教えてもらったということで感謝の念を大事にしながら生きて行ったらいいんだなと。

坂口さんは助けてくれるけど、依存するというのとは全く違って、道を示す人であって、導くというかこっち来いよって感じじゃないと思う。こういうのもありますよ皆さんどうですか?やりたくなったらやってみて。僕は僕でやりたいことがたくさんあって、僕がやりたいようにやりますから、皆さんもやりたいようにやってねということですよね。ようやく気づきました。目が覚めました。自分の行動がなくては何も始まりません。坂口さんの活動を応援するのは確かに大事やとは思う。いのっちの電話でかなりの人が助けられている訳で、そんなこと出来る人はそうそういないから続けてもらえるように応援するのもありだと思う。でもテレビに出てくるような人気商売の人とは違うから、応援して終わりだと何も作ってないことになる。何かを作ることで健康に生活していくことが、さらに多くの経験をする基礎となるから、坂口さんの人生を愛でているだけで満足しているとそれはちょっと違うなと思う。

でもそんな状態に危うくなりかけていた。人が楽しんでいるのを見て楽しんだように感じていただけで、実際のところはあんまり楽しめてなかったかもしれない。自分ももっと楽しめるように興味惹かれることは次から次へとやっていこうと思う。

それでも好きは好きですね。でもハマるというのからは距離置いた方がよいなと思いました。

大丈夫、きっとうまくいくよ。これは大事な言葉やなと思うし、これからも自分に言い続けたい。

自虐ネタは自分だけでなく他者も巻き込む

これわかってるんですけどね。やっちゃいけないとわかっているけど、どうしても自虐よりの話になってします。自己肯定なんていうのは僕の打ちには存在しないからですね。でもそれを外に出してしまうとそれを聞いたり、読んだりした人まで嫌な気持ちにさせるというか、「なんじゃこいつ」とか「いやいやそこまで言わんでも」とか「そんなことないよ」とか気使わせたり、フォローしてもらったりって感じでマイナスな気持ちにさせてしまうので極力避けたいと思いながら、ここは中々変わりません。

これは気質・体質というやつですね。無理に変えようとは思わないし、自己肯定していきましょうとかそんな風にも思わない。一時期そういった類の本を読んだりもしたけど、別にそんなことしても意味ないかなと最近思ってきた。結局そんなやってもちょっとの間だけですぐに忘れます。よっぽどの根気・やるき・いわきぐらいの人でないと中々やりきれないと思います。世の中全員が自己肯定感すごい高い人ばかりでなくても良いのかなと最近は思っています。

僕はどうしようもないけど、生きている。とそれでもいいんじゃないかなと。でないと強要することになるんじゃないかなと。自己肯定感が低い人に対してもっと上げていこうよ、自己肯定感高い方が生きやすいし、よいことあるよなんて言いかねない。そうなるとやっぱり窮屈になる人が出てくると思うんですよね。良いか悪いかはわからないし、単一のものだけが素晴らしいという感覚はちょっと違うかなと思う。

最近文章を書いているとこういうことばっかり言っているような気がする。「選択肢を複数用意しといてもらいたい」ということ。やっぱり、一つしかないとか、これが絶対だなんていう考え方になると窮屈に感じるからかもしれない。逃げ道を用意しておいてもらいたいということにも繋がるかもしれない。僕は何をするにも逃げ道がないと行動できない。安心感の上に行動があるような人間でチョー保守的なのかもしれない。だからこうやって今まで生きて来られたような気さえする。

どんな行動においても唐突に行動するというようなことは今までないかなと思う。唐突に思えても実は振り返ってみると結構、綿密に計画が立てられていたというか、自分の中では熟成された結果、その行動があるというようなことが多いように思う。人から行動力があるよねとか言われているけど、そこに至るまでに逡巡していたというのか熟考があったというのか長考したていたことは間違いない。今日思いついて今日行動すると言うことが一見ありそうに見えて実は今日思い出して、たまたま今日行動しただけであるということがほとんど。それまでに口に出してなかっただけで、自分の中では十分に煮詰まった結果行動する。それが急に行動しだしたなこいつと思われる所以かもしれない。

こうやって日々文章を書いていることでどんどん自分の中では何かしら煮詰められてきている。煮詰まってきたなと思っても、何かしらの情報流入によりまた温度が下がり、さらにコトコト煮詰め始めるということを繰り返している。そう、途中でなぜだか何かしらの情報がどこからか投入されてしまう。どうしてもそれは防ぎきれない。インターネットに接続している限りどうしても情報が入ってきてします。そしてその情報によりひるんでしまし、持ち前の保守的思考によりこれは再度煮詰める必要があるというような思考パターンに陥ってしまうということ。これを防ぐためにはどれだけ情報が流入しようと鍋の中身の温度を落とさないぐらい火力を強力なものにする必要がある。火力を増強するためには何が必要なのかと考える。それは「つくる」ということなのかもしれない。「つくる」という行為そのものが勢いをつけてくれるのではないかと思う。薪をつくるということですね。それは自発的な行為であり、自分の内から出てくるもの。外から出てくるものではないと思うから、こうやって日々文章を書き、火力を増大していく必要がある。

こんな風にめんどくさいことをしなくても、いとも簡単に出来ちゃう人が世の中にはいるんですよね。僕とは対極にいる人間。急進的というのか。またこいつなんかやってるはみたいな。どんだけ行動すんねん的な。そんな人間が僕の鍋の中身の温度を低下させるのです。知らなきゃいいんだけど。インターネットに接続することによって自然と流入してきてしまうんだから仕方ない。僕はこれを防ぐことをしないといけないということだと今気づきました。それでも以前よりは「自閉」し、ネットワークと繋がることを制限しています。制限しているというのか、そんな時間が減ったというのかどちらかはよくわからないけど。日課をしているとそんな暇ないということかもしれない。そういう意味でも日課を沢山することで、しょうもない時間が減らすことができるから良いのかもしれない。日課をする=何かを作る=ネットワークを断ち切る、ということに繋がっていくのかもしれない。

こうなってくると自分を否定することを減らすきっかけにはなるかもしれない。僕の場合は自分を否定する時と言うのは決まって、他者と比較した時になる。何もない時に自分を否定すると言うことはない。何か失敗した時でも、自分がダメだと言うよりは、「あの人がやってたらもっと上手くいったやろうに」みたいな思考になりがち。なんでそうなるかはわからないけど。失敗するたびに誰かを思い浮かべて、失敗の傷口に塩を塗り付けることをやりたがる。あー失敗しただけで終わることはない。

そこで人と比べると言うことはその時思い浮かんだ人のまねをしてみると良いのかなと一瞬頭をよぎりましたが、まねをするのが下手なんですよね。まねの上手な人って人のことをよく観察していますよね。だから上手いんですよ。観察して行動するのが上手いっていうよりは、観察の方がより秀でているような感じがします。そうか観察の方にもっと注力するようにしたらいいのか。どうやったらうまくいくのかを。

なるほどようやくわかってきたような気がする。表面上で情報をただ見るのではなくて、どうしてその人が行動できているのかとか上手くいっているのかという見方をすることでただの鍋の中身の温度を下げるだけの厄介な何かではなくて、良い調味料にすることができるのではないかと今気づきました。なるほど。そうかそういう観察の仕方か。勉強になりました。上手くいっている人のことをよく観察して、そのように行動していると上手くいくと何かの本に書いてあったか、誰かが言っていたような気がする。ただ僻み根性で他者を「くそくそくそ」と思いながら見るのではなくて、観察の対象としての情報源としてみることによって自分の鍋をより豊かにすることができるのだなと、そうなると煮詰まる時間も短縮されて良いかもしれない。

あー、またタイトルと全く関係ないこと書いている。

でも坂口恭平さんも全く違うこと書いてたし、ええか。

こういう都合の良い取り入れ方によって、自分を肯定するというか逃げるという方法も使えるということか。

なんでも自分の思うように、取り方工夫すると言うことか。

最終的に自分の中でまとまって良かった。

大丈夫、きっとうまくいくよ。

これは必ず口にしておきたい言葉。

坂口恭平さんから教えてもらった言葉。

教えてもらったと言っても直接でなくて、ネットワークに接続した結果得られた情報です。そうなるとネットワークに接続しておくことも悪いことばかりではないなと思えますね。

結局どっちやねんということです。

「まとまらない人」の感想文

 

まとまらない人 坂口恭平が語る坂口恭平

まとまらない人 坂口恭平が語る坂口恭平

  • 作者:坂口 恭平
  • 発売日: 2019/11/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

またまた坂口恭平さんの話です。というか読書感想文です。また読みました。最近はこの人の本しか読んでない。読みやすい本ではないと思うんやけど、なんかスラスラ読んでしまう。おそらく今はわからない。わかるかどうかが問題でもないような感じもする。ほんとにスラスラ考えず読んでいる。坂口恭平さんが横で朗読するような感じがする。たぶんそれは文中にそのように書いているからだと思うんだけど、そんな感じがする。人柄が溢れている。でもそれは他の作品のことであってこの本のことではないかもしれないけど、なんかこの人の書く本。と言ってもまだ4冊しか本は持ってないんだけども、なんかすごい親近感湧くというか身近な人が書いているというか。距離感近いように感じる。平易な言葉ばかりで書いている訳ではないし、坂口さんの言い方で一般的ではないよう語り口なような気がするんやけど、わかったような感じがする。いやわかってはないけど、沁みてくるというのか。最早、分かりたいというのか、坂口さんが書いている世界を共感したくなるというような気持ちになる。それはなんでかわからない。わからないけど、理由の一つにはすごい世界を描こうとしているような感じがするから、その感覚を得たいというのかその感覚を理解できるというか、体感できる様な人間でありたいと思うのかもしれない。坂口さんが描く世界は全くもって僕が今まで思い描いてきたような?感じてきたと言った方がいいかもしれない。感じてきてた世界とは全く別次元の世界が描かれているような気がする。次元が違うというのはまさにこのことなんかな。今まで人と比べた時に努力の差というか、僕が疎かにしたことをやり続けた人が僕よりも秀でているなと。僕の延長上に差を感じていたから、よりひかくをしてしまって、なんで僕はあの人みたいに頑張られへんのやろと感じて落ち込んでいた。どうしても比較してしまっていた。それは著名人であってもそうで。同じ次元で捉えていたから余計にそうなるのかもしれない。でも坂口さんは差はもちろんあるけど、次元が違いすぎて比較の対象にならないというか、なんか異世界に生きている人な感じがするから、比較する訳もないし、悔しくもないし、落ち込みもしない。むしろ坂口さんが書くもの描くもの作るものをもっと知りたいと思うようになってきた。最近はあんまり興味関心が湧くことが少なくなってたところやからちょうど良かった。僕の隙間にちょうど入って来てくれた。風を吹かせてくれている。尊大なところが僕は痛快でいつも笑ってしまう。どうやったらそこまで自分のことをさも過去の偉人と同じ並びに時にはそれを超える存在だと思えるのかと。純粋にすごいなと思う。僕はいつもすごい人を見ると斜に構える。すごいと言えどどこかに落ち度はあるだろうと僕が戦える何かがあるだろうと。そういうところを見てしまう。でも坂口さんは違う。周りからどんな風に揶揄されていようとも、その人にどんな良いところがあるかということを探すのが得意らしい。その時点ですごい。僕と全く違う視点。愛情に溢れている。最早愛しかない。でもそれだけじゃない。愛は基盤にあるんだろうけど、なんか知識というか知力というのかが圧倒的すぎる。どっからでも知識が飛んでくる。その知識も他の人が見る見方と違うからまた面白い。知識を坂口さんの切り口から見て、解釈して教えてくれるから面白い。ある本の1行をみてそこから感じて30行も書けるって言ってた。訳分からん。創造の源泉の湧出量が毎秒何万ℓやねんって言うぐらい湧き出てる。それがまた苦しいのかもしれないけど。湧き出てくる分、それをなんらかの形で具現化すると言うか、「現実世界」に出さないと具合が悪くなっちゃうから。それって凄くしんどいよな。しかもただの雑念じゃなくてなんか凄い言葉が湧き出すんやから、それを身体の中に留めておいたら頭おかしくなるやろな自分やったらと思う。僕の身体にそんな言葉が湧き出す訳ないけど、もし仮に湧いたらすぐに頭いかれると思う。ただでさえ弱いのに。坂口さんは凄く強い。鬱になるということは弱さがあるようにも思うけど、膨大な情報というのかイメージというのかがあれほど湧き出すなら精神が安定しないのもうなづける。目まぐるし過ぎると思う。身体への負担は計り知れない。それが体質だというんだから辛い。何かの方法論で簡単に対処できるようなものでも無さそう。定型のものではどうしようもない。だから試行錯誤しているんだと思う。精神が病んでなくても本来人は試行錯誤するもんだけど、それが出来なくなるから精神が病むのかな。思考が停止してしまうんかな。精神が病む人は千差万別だとは思うけど、似たような部分があるのかもしれないな。坂口さんの場合は表現者として社会から認知されているから、少々言動や行動が理解の範疇越えたとしても「あの人ぶっ飛んでんな」っていう褒め言葉とともに許容されるけど、一般の名も知れてない人が似たような振る舞いをした途端「あの人ヤバい」と後ろ指差されるんじゃないかな。そこが辛いよね。僕もたぶんそういう風に見てしまう。何を言うかより誰が言うかというところにどうしても着目してしまいがち。それやっちゃうと結局は力のある人であったり、有名な人方ばかりが良いこと言ってるみたいな錯覚に陥ってしまうもんな。それだと生きにくい世界になるんだろうなと思う。有名な人と無名な人に分断される。だからメディアやネットとかで印象操作されやすくなるんだろうなと思う。わかりやすいというのは怖い面もあるなと。わかりにくいってことも時には必要なんじゃないかなと思う。どちらか一方に偏りがあるとやっぱり歪になってくる。均整が取れているというのかバランスが良いというのかそういう環境というのは良い面も悪い面もあるし、それ以外の面もある。色んな部分があって成り立っている。そこを無視しては行けないなと思う。それはデジタルな世界からではわかりにくい。ノイズを一切排除しているから。効率重視。美しいことが是とされている世界。自然はそうではない。晴れもあれば雨もあるし、それ以外もある。良い面ばかりではない。だから自然と日々触れ合うことが大事でないかなと思う。様々な面が本来はあるということが認識出来るだけでも少しは気持ちが楽になるんじゃないかなと思う。僕も畑しだしてからちょっとは感じられるようになって来たかなと思う。

大丈夫きっとうまくいくよ。と坂口恭平さんが良く言ってます。

僕もまた同じようにその言葉を最近使うようになっています。まだ自分にだけやけど。その言葉が信用出来るようになったら、他の人にも言ってあげようと思います。

テキトーに生きていたい

これは許されるならこうしたいって言う人は多いんじゃないかな。でもこれって公に言うのって憚られますよね。世のため、人のためっていうのが善とされている世の中においてこれを言ってしまうということはある意味で世捨て人というのか、「あいつってちょっと。。。」みたいな感じで思われるだろうし、色々考えると心の中に留めておこうなんて思っちゃうんじゃないかな。

でもそんなこと気にせずに言っちゃったほうが気持ちいいと思うんですけどね。これはもう随分前から思っていたことなので、今更隠しておく必要もないので、ここに残しておきます。テキトーな文章になっているのであまり気にする必要もないかなと思っている。

「テキトーに生きたい。」そんな風に思いませんか?僕はしょっちゅう思っています。だってそっちの方が楽だから。でも世の中ではそんなに甘くないとか。そんな風に生きられるもんじゃないって言われます。大人がそういうのです。軽口叩くんじゃないと。世のため、お国のためです。

世のためって、世は僕にどれだけのことをしてくれたのか。社会人として働いていますが、そんなに何か返ってきたことないけど。お国のためって、お国は僕にどれだけのことをしてくれているんだろうかと。いつも思います。税金を徴収して真っ当なことをやっているのかと。こんなこと言うと「お前はクレクレ族だ」とか「最初から見返りを求めるんじゃない」とか「まずはギブギブギブが大事なんです。」とかしれっとしたり顔で言うんですよね。エライ人は。

最初から欲しがってはいけない。やるべきをことをやってこそ初めて返ってくるんだとか。言っちゃうんですよ。でもそんなこと言ってる人で幸せそうな人あんまり見たことないんですけど。それはどういうことなのでしょうか?真っ当に生きたところでそんなに充実した生活を送れている人言う人を僕は見たことが無い。というか真っ当な生き方ってそもそも何ですかと言うところなんですが。世のため、人のために生きていると言うことが真っ当な生き方なのでしょうか。自分の利益を最大限考えると言うことは真っ当な生き方ではないんでしょうか。人間はその他動物と異なるから、ただ生きるだけではダメと言うことでしょうか。働かないとその時点で真っ当ではないと言うことなのでしょうか。でもそんなことはない働かない、もしくは働けないことが無価値なはずがない。でもそれに反論するだけの知識や語彙を僕は持っていないのだけど、感覚的にそう思うわけです。賢い人なら論破してくれるんでしょうけど、僕にはそれがないでもわかる。働かない選択肢があったっていいと思う。享楽的な生活を送っている人を僕は批判してきたけど、まあそれも選択肢の一つではないかと思う。

病院で働いている時に出会った生活保護を受けている人は病院に来る必要ないやろと思う人がたまにいた。すごく症状を訴えるけど、特に所見はないみたいな。生活保護を受けるための病院受診。それが僕はすごく愚かに見えた。この人はなんのためにこんなことしてるんやろと。正直蔑む目でみていたところがある。その視点は何かと考えてみると。自分はこうやって毎日朝から晩まであくせく働いて、しんどいおもいしながらやってんのにこいつは毎日働きもせず、こうやってただ病院に来て痛がる振りをして楽に生活しやがって。という僻みから来ているものだと思う。純粋に軽蔑している訳ではなく、僻みです。僕が国家のためにとか世の中のためにとか思っているある意味で言う真っ当な人間ならまた考え方は違うのだろうけど、僕は真っ当な人間ではないので、このような気持ちになる。

憧れるんですよ。テキトーな生活に。そもそもが目的も理由もなくこの世界にやってきている。どのような選択をして生きようとその個人の問題であって、他人がとやかく言う問題ではない。とやかく言うのは妬み・嫉み・僻みか迷惑を掛けられたら困るという恐怖心かのいずれかではないかと思う。ルールが存在するのもたぶんそんな感情から生まれているのではないかと思う。

だから、世のため、人のために行きたい人はその道をひたすら突き進んでいけばいいんですよ。それに対して何ら批判的に見ることはありません。むしろ僕はすごいと称賛します。僕には出来ないことだからそれは。でもそれ以外の選択肢も用意してもらいたい。そしてその選択肢を批判しないで欲しい。

それは違うよ、その生き方間違ってるよと。頭ごなしに言わないで欲しい。なんなら興味深いねと言ってもらってもいいんじゃないかなと思う。選択肢が多ければ多いほど迷うことも確かだけど、用意されている選択肢が多いと安心できる。それはこの仕事をしていて本当に思う。こうでなければ行けないと思い込んでいる人が本当に多い。健康を損なうからこそそういう思考に至るのんだと思うのだけれど、そこまで一つの方法に固執しなくても良いのにと。こんなこと言ってしまうと元も子もないというのはわかっているでも。可能性がほぼないことに対してトライし続けるというのは正直辛い。これも僕からの視点であって、否定できるものではないということはわかっている。でももっと楽な道があるのではないかと思ってします。理想が固まりすぎてそれ以外の選択肢に目が向かない。でも僕はそれを否定できないから付き合う。その選択は袋小路に突っ込むだけとわかっていても僕は別の選択肢を提示できない。その人がそうしたいというのだから。一応提案はする。でも僕に説明が不十分であるのか理解をされることはほとんどいない。諦めない。たしかに諦めないということは非常に大事なんでしょう。諦めないことこそが人間を人間たらしめているというのをどこかで聞いた。人間だけが諦めない訳ではないと思うけど、そうらしい。となると諦めやすい僕は非人間か。

ただその言葉が全ての人に当てはまる訳ではないので、当てはまる人だけがあーそうかと思えばいい。全ての人に当てはまる言葉なんてこの世に存在しない訳で。あまり一つのことに囚われないようにした方がいいんじゃないかなと思うのが僕の意見。

つまりは僕は逃げ道を用意しておいて欲しいんですよ。そうでないと生きられないんです。道が一本しかないって怖くないですか。そこに突っ込むしかないんですよ。行くか戻るしかないって恐怖しかないんですよ。そんなの道と言えるのかすら僕は疑問に思う。いくつかの選択肢があるから道であって、迷うことが出来るからこそ道だと思うんですよ。だから初志貫徹なんて言葉は僕には全く当てはまらない。僕の解釈が間違っているのかもしれないけど、初めに思った気持ちをやりきるって怖くないですか。選択を変えられないんですよ。それを是とするってどういうことですか。絶対なんていうのはこの世に存在しないんだから、変わることがあったっていいでしょう。人生の一時期において、たとえば年数とか区切ってこの期間だけは何としても俺は意志を変えないとかだったらまだ理解できる。部活なんかそうかな。それでも辞めたっていいし、別のことを途中からやりたくなったらやったら。

一流と言うのはごく一握りの人しかなれないんだから一流であって。特別なんです。だから初志貫徹ができるのであって、全ての人がそれを実現できるわけではないんですよ。でも目指すのは勝手ですよ。一流にを目指し続けるのはやりたければやったらいい。それを否定するわけではないし、応援します。でも強要は辞めてほしい。一流の方たちが物事を成すためにはやり続けることが大事です。いや、まあ確かにそうかもしれない。でもそれはあなた方特別な人においてはそうかもしれないけど、特別な能力というか他者を圧倒するような能力がある人と言うのは本当にごく一部の人間だけなんですよ。だからこそあれだけ称賛を浴びたり、批判を浴びたりして、名誉を得ることが出来て富を得ることもできる。みんながみんな特別な能力なんかもっちゃったら、それはもはや特別ではなくて、当たり前になる訳で、みんながそこを目指す必要もないと思うんです。

だからやりたい人はやればいいし、やりたくない人はやらなくてもいいという風なそういう寛大な世の中になって欲しい。

人に迷惑と言うか自然に迷惑をかけさえしなければ別に何やってもいいし、何もしなくてもいいとおもうんですけどね。

食って、出して、寝る。これでもいいと思うんです。そしてこれが自力で出来なくてもいいと思う。誰かの手を借りないとこれができないからと言って悲観的に思う必要はないと思う。手を貸すことが好きだとい、世のため、人のために尽くしたいという人はたくさんいるから。困っている人を助けたいと思っている人は本当にたくさんいると思う。でもそういう人たちに限って収入が少ないんですよね。おかしいですよね。良い椅子にふんぞり返って暮らしている人間の方が収入が多い。多い少ないが問題ではないのですが、人のために働きたい・行動したいと思っている人の収入が少ない問題はなんとかならんのですかね。それだけ貴い人たちが苦しみながら生活するってどういうことって思います。気持ちだけでできるものではないですよ。生活が懸かっているんだから。そうなんですよ。僕たちは人質にとられているんですよ。働かないと生きていけないんです。お金がないと生きていけないんです。そういう世の中です。だから嫌でも働かないといけないということになっています。

何をするにもお金が必要です。僕がこうやって安心して文字を打てるのは雨風を凌ぐことができる建物があるからで、そこに住むには当然お金が必要です。このパソコンだって、こうやって書いた文字を後悔するネットワークの使用だってお金が必要です。

まあネットワークに乗せずにノートに書けばもっとお金は少なくてすむけど、ノートだって、ノートに文字をかくペンだって。お金が無ければ手に入らない。だから何かしたければお金が必要で。そのためには働くという選択肢しか今のところ方法はない。もちろん自分が働かずにお金をはたかせるという方法もあるにはある。でもその働かせるお金を得るにはまずは働くしかない。結局のところどの選択肢を取ろうと最初にお金が必要です。もらえたらいいですけど、そんなことごく限られた人しかできる訳もなく、とりあえず働くしかないんです。

でも最近?最近でもないのかな。僕が、最近目をする機会が多いなとかんじているのは0円でなんとか生活できないかという人たち。

いわゆる自給自足ですね。食料はもちろんのこと、電力・水・火すべてを自給しようとしている人たち。そういう人が増えてきています。これが実現すれば僕の思うテキトーに生きるということが可能になるんだなと。

これは一般的に言う働くというのとは違うけど、毎日自分で生活をどうにかしないといけない。全ての責任が自分にある。すごく大変だと思うけど、すごく魅力がある。妄想が大好きなのでこんな生活ができないかを妄想している。

ということで疲れたので中途半端なきがするけど、今日はこの辺にしとこ。

大丈夫、きっとうまくいくよと自分に声を掛けながら今日も一日生きることにします。

気乗りしない日だってある

ここのところ結構書いています。何のためとかじゃなくて日課だからかな。でもそれでも書きたいと思うから書いていました。テーマも無理に出しているというよりは、朝5時に起きてから、湯を沸かし、米を炊きながら、身体を動かしながら、ボーっとしながら過ごしていると今日はこんなこと書こうかなとか、あれってどういうことなんかなとかっていうのを勝手に考えてしまうので、その考えたことをここに書いている。

だから苦しい感じとか、辛い感じ、無理している感じは全くないのです。

でもそれでもなんとかく今日はいいかなと思う時が今日です。

今日も昨日と変わらず5時に起きて、湯を沸かし、米を炊き、身体を動かしておりました。あーでも今日は身体を動かすのあんまりしてなかったような気がする。ちょっと身体が重いのかもしれないな。

日課=薬と坂口恭平さんに教えてもらって。教えてもらってって何か媒体を通してであって、リアルに教えてもらった訳ではないけど、教えてもらいました。坂口恭平さんの場合はリアルでないのにリアルに教えてもらったようなライブ感がなぜかすごくあるんですよね。Twitterにしろ、noteにしろ、書籍にしろ。なんかライブ感があるんです。何かしらの媒体を通して、文字しか見ていないのですが、聞こえてくるような。直接声を掛けてもらっているような感覚があるのです。それは本人も言ってて、声であると。

坂口恭平さんにハマっているからこそそのように感じているのかもしれないけど、確かにそんな感じがするんです。すごいですよね。イメージってやっぱり大事だなと改めて感じています。そう思わせる坂口恭平さんはやっぱりすごいなと今まで出会ったことが無い感じです。

文章を読んでいると不思議と感覚が違ってくるというか、気持ちいいんですよね。そういう風になるように仕掛けと言うか仕組みと言うのかがあるのかもしれません。しかもそれを意図的にやっている訳ではなく自然とやってしまっていることがまたすごい。

しまった、また坂口恭平さんのことを書いてしまっている。妄信とはまさにこのことですね。それが一番まずい。その人が語ったことをそのまま受け入れてしまう。何の疑いもなく、信じてしまう。それは良くないと僕は常々思っていて。僕は人から聞いた話は大概、「ほんまかい」とひとツッコミ入れる癖がある。たぶんそう思う内容に関しては感覚的に本当にそう感じているのだと思う。そう思うような内容なんだと思う。そうでない時はすごくすんなりと身体に浸透してくるからだと思う。身体はよくわかっている。感覚だけでは生きられないかもしれないけど、身体に任せることは大事だと思う。感覚とか身体とか言ってしまうとわかりにくいけど、いわゆる勘っていうのんかな。

僕は勘が好きです。勘って誰のせいにもならないような気がするから。責任取らないと言うことが僕の信条ではあるので、勘って大好き。

そういえば僕は勘で大抵のことを乗り越えてきたように思う。迷ったときは深く考えない。

理学療法士の国家試験の時に僕は窮地に立たされていました。どうにもならない状態まで追い込まれていました。なんたって国家試験対策としてあんまりべんきょうしてなかったからです。まあ当然ですよね。みんなは集まって勉強したり、助言しあったりしていたようですが、僕はそんなことめんどいなと思って、一人でやってました。

やってたと言ってもただひたすらに過去問を解くと言うことだけをやっていました。深く調べることすらしないでただただ過去問しかやっていませんでした。しかもテキスト開くのもめんどくさかったのです。CD-Rに膨大に過去問は入ってるやつがあって、パソコンの前に座ってマウスをカチカチとクリックしながらひたすら過去問を解いていました。そして、勉強にも身が入りにくい僕は、就活が終わってあとは卒業を待つだけの大学に通っている友達に誘われれば断ることもなく、遊びに興じていました。国試の1カ月ぐらい前に腰を痛めたのですが、その数日後にスノボーに行く予定にしていたので、なんとか腰を治してスノボーに行くことができました。エネルギーを遊びの方に向けていました。遊んでいる時は国試のことなど頭にありませんでした。全力で遊んでいました。

なので、当然のごとく国試当日は地獄を見る訳ですが、勘だけで乗り越えて今があります。僕は勘や運がこの試験を左右するだろうと思っていたので、試験に向けた一番の対策として鉛筆に数字を書き入れることにしました。そうです。鉛筆を転がして出た数字が正解だと信じていたのです。揺るぎない自信がありました。そして、当日どの数字が一番来るかと言うことを勘に頼りました。マークシートでしたので、5個しか選択肢がないのです。ならば3だろうと。3はミスター長嶋の背番号である。これを越える強い数字はないだろうとなぜかその時に思ったので3にしました。

結果は奇跡的に合格しました。同級生の中で僕より直前の模試では点数が良かった人でも落ちているのに僕は奇跡的に受かりました。勘や運を信じた結果受かりました。

そうやって僕は流れに任せて生きてきました。

ということで気乗りしない日があったって良いし、あとでなんとか辻褄合う時もあるということです。

無理してやったところで結果が出るとも限らないし、したいように生きるということが大事なのかなと。

成長のためにと一生懸命やりたい人がいたっていいし、そうでないと思う人がいたっていい。

全ての人が耐えて成長だけが善だという世の中ってやっぱり怖いと僕は思う。そんな世界で行きたくないし。

選択肢が用意されている世の中で生きて行きたいなと思います。

だからこそ気乗りしない日があったってええやんって思うんです。

大丈夫、きっとうまくいくよ。

この言葉を頼りに生きて行けたら幸せちゃうかな。

専門学校でのNとの出会い

毎日結構書いている。これに特に意味はないし、ひたすら量を書いて文章が上手くなりたいとかそんなことも特にない。ないことはないけど、そこを目指している訳ではない。ただこれが日課だから、日課として毎日文章を朝起きてから書くと決めたからやっているのです。誰かに発信している。ということでもない、本来は「いえる」のプロモーションだった訳ですが、それよりも今は文章を書くことを日課として、文章を書きたいと思うから書いているのです。そんな感じでやっている方が日々に流れが起きているというか。流れている感じがしていいんです。

いきなり、本題から外れた訳ですが、いつも書こうとすることを事前にちょっと決めたり決めなかったり。構成はまず考えて書かないのですが、今日は僕のことではなくて、人のことを書くことにしたからいささか緊張している訳です。人のことを書くのは少し緊張するんですよ。しかも文章を書き始めてから人のことを書くのは初めてじゃないかな。だからなんだって話なんですが、得意のこんなこと書いたらどう思われるか心配病が顔を出すんです。特に自分の事以外を書くと余計に気になります。気になる病です。このまま気になりすぎて、身動き取れずに樹になってしまうんじゃないかなと思ってしまったり、そんなつまらんこと考えてしまったりするんですよね。

まあとりあえず専門学校での出会いってことなんですが、というか専門学校での出会いが今の僕に大きな影響を与えているというのか、与えているんでしょうね。だから今があると言っても過言ではないですよね。なんたって僕は人に影響を受けやすい体質ですので、その出会いがあってこその今の流れがあるわけで。

今日はちょっとマジで緊張しているかもしれませんね。中々思いが素直に出てきません。恥ずかしがり屋さんの僕が顔を出しています。僕は小さい頃から恥ずかしがり屋で人と話するのが苦手でした。慣れるまでに時間がかかるんです。なので専門学校時代も同様に周囲の人間とすぐに仲良くなるということはできませんでした。

でも友人のN、実際にはエヌではないのですが、めんどくさいのでエヌという名前にしておきましょう。その友人のエヌはそんなこともなくて、周囲の人間と難無くコミュニケーションを取っているように見えました。エヌは主導権を取ろうとしていました。たぶん生来のリーダーシップやろうなのかもしれませんが、そんな感じに見えました。正直第一印象は良くなかったように思います。だって顔が怖いから。見た感じシャープな顔をしているんですよね。良くも悪くも。こズルい感じがなんとなくありました。僕は第一印象を全ての判断基準にしているので、良い印象を持っていないこの時点で交わるはずはないのですが、なぜかこんな印象なのに交わるんですね。謎です。だから今があるのかもしれません。

彼は最初から僕と全く違います。ガンガン行きます。ガンガン話かけます。行動するとなったらすぐにしているように見えました。正直その感じがウザかったかもしれません。それでもガンガン動いているように見えました。なぜ話をするようになったかは知りませんが、話すようになっていました。

専門学校でなにをしたか具体的にはあんまり覚えていないけど、よく家に泊まりに行った記憶はあります。彼の実家に。ママが優しくしてくれました。これは別にここで話する必要ありませんでしたね。でも人の家に泊まりに行くとかあんまりなかったので、ちょっと書いてみました。人の家で寝るってなんか落ち着きませんよね。気使いますし、お金払ってホテルで寝るなら気兼ねなく行けますが、人の家って独自のルールがあるから気使います。でも彼の家は気を使わない。そう彼はあまり人に気を使わせないんです。なんででしょうか。たぶん彼は寛大なのでしょう。そう、僕にはない寛大さを彼は持っているのです。ここは圧倒的に違うところかもしれません。僕は人に気を遣う名人なのですが、彼は気を使わせない。なんで?それってどういう要素なのでしょう。でもそれって人と関わる上ではすごく大きな部分ですよね。安心させると言うことになるのでしょうかね。彼は僕よりも身体が小さいハズなのですが、結構大きく見えます。漢学的には僕の方が小さいような気さえします。心の大きさの違いでしょうか。不思議です。でもなんかそんな感じがするのです。そんな感じってどんな感じって感じがするでしょうがそんな感じな訳です。

彼と僕の違いが大きいから仲がよくなったのかもしれません。彼は学生時代から行きたい方向が決まっていたようです。僕も決まってはいたというか、当初は決まっていました。でも折れました。実習で折れました。へこたれました。思ってたんと違うというか自分の能力のなさに折れたのかもしれません。根拠のない自信は持っていますが、圧倒的に弱いです。すぐにへこたれるのです一度でも失敗しようものならすぐにへこたれます。ですもエヌはへこたれません。多少の失敗なんのその。多少の壁は持ち前の馬力でブルドーザーのようにぶち壊しながら進んでいきます。力技で進んでいきます。小細工など必要ないのです。全て根性で乗り越えていくのです。そんな風に見えていました。目標があるということはそういうことなんでしょうか。多少の失敗は失敗のうちにはいらないということでしょうか。僕には見せないだけかもしれませんが、へこたれている様子をみたことがありません。見せない所が彼のすごさかもしれません。なんでも力今はそうではないかもしれませんが、パワープレーでどんな場面も乗り越えていくところがあるように思えました。かなりの自信家でもあったかもしれません。怯みません。焦っていることはあったとしても怯みません、強引に前に進みます。僕のように回避するということをしません。どうにかして前に進みます。推進力が彼の魅力かもしれません。

集団をまとめようとします。僕は集団から外れようとします。

ルールに沿わないやつを嫌います。僕はそんなことあんまり気にしません。自分さえ良ければいいのです。エヌは根っからのリーダー思考なんでしょう。組織をまとめることに魅力を感じています。熱いんです。僕は熱くないです。嫌いではありませんが、熱くないです。他人と燃え上がるということはありません。自燃で終わります。エヌは他人と燃え上がり、さらに燃えます。自燃であり、他燃も求め。共燃するということを何よりも望んでいるように見えます。頑張っているやつを救いあげようとします。そんなこと僕はしません。うん、頑張ってるね。引き続き頑張ってね。ぐらいです。エヌはよう頑張ってんな、よしもっと一緒に頑張ろうってな感じです。すごいです。熱量がすごいのかもしれません。ぼーぼーと燃えるのが好きなのかもしれません。キャンプファイアー的な感じ。僕は焚き火台でちびちび燃えます。余韻的なものを楽しみますが、エヌはワ―っと燃えている感じです。そんな感じが好きなのかもしれません。豪快なのかもしれません。繊細一面もあるというようなことを言っていたようなこともあるかもしれませんが、ガサツです。雑です。僕も人のことは言えませんが、彼は雑だと思います。それは悪い意味ではなくて、形は気にしない。ブルドーザーなのです。根はブルドーザーです。性能はあがり、細かいこともできるようになっているかもしれませんが、ブルドーザーです。そんな感じです。だから目標に向かってガーっと行けるのです。そこが僕と違うところです。

そして彼は正統派です。真っすぐです。奥さんとも学生時代から付き合い。そのままゴールしました。直進性があるのです。推進力です。すごいんです。彼を止めるものがあるのでしょうかというぐらい、まっすぐに進みます。すごいなとは思っても、憧れません。あんな風に進むと僕の方がぶっ壊れて前に進めなくなります。そうなんです僕は繊細です。彼は強靭です。いや狂人です。いやそんなことはありません。かれは真面目です。周囲のことを気遣う人間です。ブルドーザーなのにです。ブルドーザーに本来そんな昨日は備わっていないのですが、彼には備わっているのです。不思議です。どんどんカスタマイズされた性能の高いブルドーザーになっていきました。ここで注意頂きたいのは彼は戦車ではないということです。遠くから壁をぶっ壊すなんてことはしません。体当たりです。全身全霊です。手を抜きません。ぶち当たるのです。それが良いのです。気持ち良いのです。そうなんです。エヌは根っからのМ気質なのです。エヌであり、Мなのです。それが言いたかったことなんです。彼は極限にМになりたいのです。簡単な道など求めていないのです、道が険しければ険しいほどワクワクするのです。ぞくぞくするのです。単なるどМなのです。壁をぶち壊したいのではなく、壁にぶち当たりたいのです。だからブルドーザーになりました。ぶち当たって快感を感じたいからどんどんぶち当たるのです。結果壁が壊れてしまうのです。そうです。壁をぶち破るのは結果でしかありません。それよりも彼はどれだけ壁にぶち当たったかと言う方が価値があるのですなんたって彼はどМだからです。そこがすごいのです。人とは違う形のどМなんです。そういう意味で言うと彼はある意味での快楽主義者なのではないかと今気づきました。彼の原動力は快楽主義だったのです。なんと恐ろしいことでしょうか。彼は真面目な顔をして実はそんなこと思っていたんです。ちょっと引きました。僕の妄想にひきました。

そんなエヌと出会ったかれこれ10年以上が経過しています。それでも尚付き合いが続いています。こんな僕にも付き合ってくれています。飽きないのです。だって僕はエヌがぶつかってきても壊れないからです。彼は僕にぶち当たり快感を得ているのです。そうなんです。変態なのです。対照的な人間であるがために変態なのです。

そういう話でした。

大丈夫きっとうまくいくよ。