いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

ぼんやりぐらいがちょうど良いみたい

ここ数日風邪をひいて大人しくしておりました。インフルの予防注射+農トレを激しめにやるかつ気温の変化に身体が対応できていなかったことが重なって体調を崩したのではないかと分析しております。この1、2年は環境が変わったのにも関わらず、風邪をひくことが少ないなと妻と話をした翌日に風邪をひきました。余計なこと言うもんじゃないなと痛感しました。風邪をむしろ呼び込む形になりましたね。

僕は子供の時めちゃくちゃ目が良くて、次第に悪くなり、メガネ・コンタクトを経験しました。高校の途中ぐらいから目が悪くなってきて、そこから数年で一気に視力が低下し、専門ぐらいにはメガネ・コンタクトがないと生活に支障を来すレベルでした。あんなに目が良かったのにと今でも悔やまれます。裸眼って最高に気持ちが良いですね。起きた瞬間からめちゃ見えてるんですから、メガネ・コンタクトを経験したからこそ分かる爽快感というか、気持ちよさというか。あれは一回悪くなった人でないと分からない感覚じゃないかなと思う。

社会人になってメガネ・コンタクト生活に煩わしさを感じ出して、目の調子もあんまり良くなかったし、当時結果が安定してきているというレーシックをすることにしました。知り合いでやってる人が出てきて、すごく調子がいいし、何しろ朝起きて目が見えるのが良いという話を聞いてこれはやるしかないと思って。大枚はたいてやってみました。手術は右肩の手術で経験してたからそんなに緊張しないかなと思ってたんですけど、あの手術の部屋に入ったら緊張しました。真っ暗闇の中で手術の椅子に座らされて目にレーザーを当てられるんです。なんか改造される気分でした。ライダーに改造される気分でした。目だけやけど。

そんな緊張する僕を見かねて(後から聞いた話では全員にしてるらしいけど)、助手の看護師?かなそんな人が僕の手をギュッと握るというサービスをしてくれました。サービスかどうか知らんけど。その当時僕はよっぽど不安そうにしていたのだなとちょっと恥ずかしく感じましたが、すごく安心しました。手を握られてあんなに安心できるなんてと良い体験をさせて頂きました。そのおかげかどうか、無事に手術は終わった訳なんですが、そのあとの目の痛みたるや惨憺たるものでした。聞いてはいたけど、あんなに痛いとは。当時実家の明石に住んでいたのですが、手術を大阪の梅田でして、手術終わってから家に着くまで涙が止まりませんでした。周囲の乗客からしたらこいつ一体何が会ったんやと思われたかもしれません。痛みの度合いは人それぞれだと思うんで、たぶん僕が特に敏感だっただけじゃないかなとは思いますが、それぐらい痛かったんです。

痛すぎて、手術しっぱいかなとか思ってました。せっかく手握ってもらって安心したのもつかの間でした。その日は痛すぎて何もする気がしなかったので、すぐに寝ることにしました。その時点で術前よりよく見えるようにはなったいたんですけど、痛みのせいでなんとなく気分は晴れてませんでした。

翌朝起きてから感動しました。起きた瞬間から部屋の中がめちゃくちゃクリアに見えていました。こんなに壁が汚かったっけなと思いましたが、そんなことはさておいてとりあえずすべてのものがくっきりと見えていました。

術前のおぼろげな感じが全くなく、境界線がはっきりと見えていました。

はっきりと見えることがよいと思って生活してきましたが、ここ数日早起きをして真っ暗な中こうやってブログを書いていると、日の光がまで出ていないので、ぼんやりとしか見えていません。でもなんかいいんですよね。その感じが。

物事は白黒はっきりと明確な方が良いと思っていて、わかりやすい方がいいだろと思っていましたが、ぼんやりと見えているとしゃかしゃか素早く動けず、ゆっくりと確認をしながら確実に動こうとします。急がない。急ぐ必要もないのですが、ゆっくりと動くと焦る気持ちも生まれない。慎重に行くことが僕の元々の持ち味ですが、より一層慎重に動くようになります。

なんでもくっきり鮮明に見えることが良いとされる世の中になっています。その方がインパクト強いですもんね。なんか良い感じに感じますよね。ディスプレイの解像度もあ上がれば上がるほど良いとされていますもんね。分からなくはない、そういうのを見ると気持ちがスカッとするというか、それにも爽快感のようなものを感じることができますもんね。胸がすくような感じというのでしょうか。そんな雰囲気がある。境界線が明確でわかりやすい。思考の余地がないというか、すごいものはすごいという感じですよね。圧倒的だと思います。

でも暗闇を経験するとそれだけでもないのかなと。鮮明さだけが良さではないような感じがします。暗闇は日中のような鮮明さはないですが、濃淡がある。濃淡だけでもモノが識別できるんだなと改めて認識できます。それがなんかすごいなと思って。上手く表現できないんだけど、まずそれだけでも十分すごいことなんじゃないかなと思って。クリアな世界だけが良い世界と言う訳ではなくて、多少の差があるだけでも面白いと言うのか。なんかこう安心するというか。クリアすぎるとくっきりしすぎて違いがわかりすぎると差が大きすぎて気後れするというのかな。なんか刺激が多すぎるのかな。時にはそういうのがあってもいいけど、常に刺激が多すぎると言うのは脳への疲労具合がすごいんじゃないかなと思って。

まあ何が言いたいのかはよくわからないけど、クリアで鮮明で境界をはっきりさせることだけが良いという訳ではないということ。ぼんやりとあいまいで濃淡だけの世界も十分楽しめる空間であるということ。まあこれも言いたいこととは違うような気がするな。心に少なからず闇というか不鮮明なところがあっても良いということかな。光と影とも違うけど、そういった闇みたいな部分があると安心する部分もあるんじゃないかなと思う。そうスポットライト充てられて全部が丸見えっていうのも叙情がないというか、どうなってるんやろという興味関心が湧きにくいというのかな。僕は性格的にすべてをさらけ出すタイプではないから余計にそう思うのかもしれない。明るいことが、わかりやすいことだけが安心感に繋がる訳ではないなと。

そんな良く分からないことを今日暗闇で着替えてたら思ったんです。暗闇・ぼんやりは意外と大事だなと。身体はそれを欲しているなと。確かに身体を休めようと思うとぼんやりした世界もないと休まりませんよね。常にガンガンだと身体は疲れてします。

体調を崩したからこそ分かった世界かもしれません。

体調を崩すのは悪いことばかりではなく、得るものもあったりするんですね。

もう少ししたら畑にまた行ってきます。

ではまた。

大丈夫、きっとうまくいくよ。

ということで今日も一日やっていきましょう。