いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

正常か異常か

最近の僕はどちらかというと異常な感じかもしれない。僕としては特になんら変わっている感じはないけど、こうやってほぼ毎日大量に文字を書いているということを僕をっている人たちはどうしたと。そう感じている人もいると思う。「ちょっとおかしなったんちゃう」って。

まあたしかに日常生活していて、毎日こんなに文字を書くということはあまりないですよね。物書きでもないのに。なのでこんなに毎日たくさん文章を書いているので僕は物書きになったんだと思います。勝手に物書きだと思っています。ただ好きでやっているですけどね。それでも自分がそんな感じだと思ったらそれで良いのかなと。

でも世間一般で言うとそんなこと言うやつちょっとおかしいんちゃうとなるわけですよ。普通ではないと。普通の人は会社に勤めて働いてたらその職業の人であって、それ以外の職業。ましてやモノづくりの人だと自認したとしていても他人から見たらそうではなくて、ただの素人。下手の横好きぐらいなもんで、それを声高にというかそうでもなくても、アピールしだすと。どうなんこの人みたいな感じで違和感を感じるのかもしれない。違和感は正常ではないと判断されると感じるのかな。違和感ってでも悪いことではないと思うんです。違和感あるわって言葉がなんとなく変な感じの言葉として使われているけど、実際のところいつも感じていることとは違う感覚ってだけであって、良くも悪くもない。それなのにいつもと感覚が違うと。あれって思ってしまう。あれって別に不快でもないと思うけど、なんかそんな感じ感じてしまう。いつもと同じがやっぱりいいんですよね。脳的にもそうなってるんかな。たぶん。

最近思うのは正常か異常かという風に物事を判断しすぎなのかなと。世の中的に。というか僕の中での話かなこれは。僕の中での世の中であって。僕が以外の世の中は僕は認識していないことなので、僕の中での世の中と言うことにしておきます。まあそんな前提はどうでもよいのだけど。世の中的に正常・異常、良い・悪いとかはっきりさせようとしているのかなと。中間とかそれ以外という立場は意見がないのと同じと言う感じになってるんじゃないのかなと。判断したがる傾向にある。似たようなものでも、これが良ければあっちは悪いとか。どっちも良くてもいいよねと僕は思うのですが、どうしても対立構造作りたがる。いや、実際にはそうでもないか。日本人は曖昧さを良しとしているんだから。そんな傾向にある訳ないか。勝手に僕がそう感じているだけで。シロオワールドでそうなっているだけかもしれない。勝手な先入観でした。

まあそんなことで、こんな文章を書いているとやっぱりあの人どうしたってなるわけですよ。どうしたもこうしてもないんですけど。グラデーションがあるということを言いたいんです。たぶん。黒と白だけじゃなくて、黒と白の間に黒っぽい黒もあれば、白っぽい黒もあるし、黒よりの白だってあると。そういうのを確か誰かに教えてもらった記憶があるんですよね。誰かわすれたけど。結構えらいさんだったと思っているのですが、わすれました。なんか良い言葉やなと思った訳ですよ。その当時。なるほどなって。だからあんまりに正常か異常かということにこだわりすぎるのは良くないんじゃないかなって今の僕に投げかけています。果たしてその思いが届いているかはいささか不安ではありますが。あんまりこの部分に着目しすぎると自分自身が疲れてしまうよねって話です。そう僕はもしかしたら、明確にそこを分けすぎて自分自身を苦しめてきてしまったのかもしれません。そうです僕は色んな人からお前の考え方は0か100かやなと言われ続けてきました。この文章は自分に向けて書いたすごく内向きな言葉だということに今気づきました。というか毎日誰かに向けて書いていると思っていた文章は全て自分に書いていたのかもしれないと。今すごく恥ずかしい気持ちです。

なんて自己中心的な、後悔マスタベ―ションをしていたのかと。そんな人間なんですね僕は。どうしてもそこから抜けきれないところがあるんだと思います。それが良いとか悪いとかではなくてね。そうなんですよ。良いとか悪いとかではないと思うんですよね。そういう場合もあるし、そうでない場合もあるということなんですよ。それぐらいのことで緩やかに行けたらいいのではないでしょうか。自分の持っている判断基準と違うことなんていくらでもあるんだから、そこから外れたからと言ってそれはおかしいと直ぐに判断を下してしまうのはもったいないんです。初対面でほぼ決まるなんて思ってたらもったいないんですよ。でも僕は初対面がほぼ100%だと思っているので、ファーストコンタクトで会わないと思った人とは仲良くなれません。どうしてもだめなんです。どれだけ僕の近しい人が勧めてくれた人であったとしても、ファーストコンタクトが違うとなったらどうしようもないです。ダメなものはダメなんです。これは中々変わらない。人って変われないなって自分の体験を通して感じます。変われないんだったらどうしたらいいのかなってよく考えるんですけど、考えていると良く分からなくなって眠たくなって寝ます。そうすると昨日何を考えてたかなと思って、そんなに深刻になることはないです。良く眠れます。ほとんど毎日快眠です。昨日も22時前には寝て、起きたら4時44分でした。どうでもいいことですけど、ちょっと怖いですよね。今日は何か起きるのかななんて思ってしまいます。平常運転だとは思うんですけどね。

自分の感覚を信じすぎている人が多いのかなって。もちろん僕を含めてですけどね。自分の感覚が、経験が正しいと思っているから人のことを否定しちゃうんじゃないかなと僕は思うんです。自分の持っている意見とは違う意見が正しいとなると勝手にじゃあ自分はどうなるんだと不安に思うんですかね。意見が間違っている=自分が間違っている。意見=自分みたいな。そんな構図が出来上がるんでしょうかね。よくわからんけど。人のことを否定するって怖いことだと思うのですが、否定してしまいますね。それだけ自分のことを守りたいんでしょうね。防衛本能から人のことを否定するんだと思います。自分の事がそれだけ大事だと言うことですね。でもそんな人ほど自分のことを否定したりする傾向にあるんじゃないかと、自分を通して感じています。

でもそうでもないのかな。純粋に真面目すぎる人は自己否定を繰り返すのか。死にたくなるほど自己否定するんだからそうよな。他人を否定してないもんな。僕は中途半端なので死にたくなるほど悩むことはないですし、そこまで自己否定したこともない。ある程度のところまで悩んだら「まあえっか」という魔法の言葉僕のことを救ってくれます。悩むことに飽きるんですかね。それとも耐え難い苦痛からの逃避行動でしょうか。とりあえず、問題を解決しなくても死なないと言うことがわかっているので、最終的に「まあえっか」で終わります。いやいやとおもわれることだって「まあえっか」です。この魔法の言葉に対してもいつかそれはおかしいやろと言われたことがあるようなないような。自分に嘘ついていいのかと。自分と向き合って最後までやりきることが大事ではないかと。あとで今真剣にやらなかったことを後悔するよ的なところまで言われたこともあるような気がします。

それは確かにそうだし、すごくわかる。でもそれって自分と向き合うことが正しいことで自分と向き合わないことは間違っているというその人の経験もしくは、世の中的にそうだよってことであって、それが正解かどうかなんてわからない訳で。提案するならわかるけど、説得しちゃうとちょっと違うよねってなるんですよ。それはお前の一意見であるということを認識しておく必要がありますね。そうでもしないとちょっと辛いよね。だってそうじゃないですか。自分と向き合うってことってそんなにみんながみんな出来ることでもないと思うんですよ。そんなことみんなが出来るようになってると、世界は逆に混乱に陥るのではないかと根性論が蔓延しかねないのではないかと。

まあでもそれって僕が逆に自分と向き合うっていう考え方を否定しただけなのかもしれないけど、向き合うことばっかりやってるとたぶん疲れると思うんですよね。向き合うってなんかすごく前向きなように捉えらえてるけど、そうでもないんじゃないかなと必ずしもそういう結果を生む訳でもないし。まあえっかってやっちゃう方が前向きな場合もあると思うんですよ。でもエライ人たちからするとそんなことはたぶんないんだと思うけど。僕はおそらくそういった人たちからすると教育の対象になりがちなタイプだと思う。でも僕はそういった人たちの前では真面目なフリをしてしまうので、ちゃんと怒られたことがないかもしれません。

また今日も良く分からんかんじになってきて、毎日自分へのエールを送っている訳なのですが、これが励みになって生きていってくれれば良いんですが、テキトーに生きたいので、日々真っ当なことを考えずにキャンプ行きたいなということをよく考えています。あと畑どうしようかなとか。大体その二つぐらいしか毎日考えていません。なぜならそうすると幸せだからですね。楽しくなるから。仕事でどうしようかなんて最近考えたことがほとんどないです。まあないこともないのかもしれないけど、その時間はだいぶ減ったように思います。金もらってんねんから考えろと言われそうですけど、仕事中はそら考えていますけど、そんなに深刻にならずに考えるようにしています。そうしないと僕の場合は仕事を継続することが難しいと最近感じるようになったからです。それぐらいのスタンスで取り組むようにしています。それが良いのか悪いのかはわかりませんが、今のところクレームが来ていない所をみるとそれなりなんでしょう。僕が100点を目指したところで到底到達することは無理なので、というか100点なんてテストで設定された問題以外で現実的に存在するのか定かではありませんが、そこ目指したところで余計にしんどくなるだけ。というか点数化するととてつもなく辛さを感じるだけなので、そっとしておいて、感覚に任せて流れにのっていけたらいいんじゃない、っていうぐらいでノリノリな方に照準を合わせてテキトーに適度に生きられたらなとおもっているのです。

大丈夫、きっとうまくいくよ。

という言葉がある限り大丈夫なような気がしています。

言葉というもんがあるおかげで生きられているようです。ありがとう。

この記事でようやく100記事達成しました。

自分ながらにそこまでやったかと。

誰にもリーチしてない僕の文章ですが、ほぼ毎日書いて良くやってるなと思います。

誰からも頼まれていないことを真剣にやることほど楽しいことはないのだなと。

制約がないのがいい感じです。

僕にはそんな仕事がいいような感じがすけど、どうでしょう。

雇われるのか自分でやるのか。

そこまではっきりと線引きする必要はないと思うんですけどね。

でも線引きたい。曖昧が苦手なのかもしれません。

曖昧=空気読む的な感じなんです。

空気読むの苦手なんですよ。

もうこの辺で今日は時間となりましたので、また。