いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

なんとなく上手くいきそうな気がする。

おはようございます。

今朝もやってまいりました。頭の中のラジオ局です。

当ラジオ局ではDJの私のまとまりのない話を延々と述べると言う全くまとまりのない情報を発信しています。

そのためリスナーはほぼいません。

誰か聞いてくれていたらいいなとも思いつつ、たぶん聞いてないと思って安心してテキトーに発信しています。

もし僕に興味があると言う奇特な方がいらっしゃったらメールでもなんでもください。

当局に専用のメールアドレスもツイッターもないので、送れませんが気持ちで送ってください。

そうしたら受信できるかもしれませんので、どうぞよろしくお願いします。

昨日の天気の感じではなんとなく梅雨明けかと思いましたが、今日曇天です。

梅雨明けが近いのか遠いのかよく分からない天気が毎日続いています。

そうなると僕の体調はややゆらゆらしてきます。

今日もそんな感じ。

だからちょっと良く分からないテンションでラジオ局とか謎のことやっています。

 

ラジオ好きな人なら、いつかは自分のラジオ番組やって自由に話してみたいと思ったことはないですか?

今は誰でもラジオっぽい子こと出来る世の中になりましたもんね。

YouTubeでだってラジオっぽいこと出来るし、他に色々な媒体というのか、そう言う奴使って発信できるんですもんね。すごい世の中になりました。

誰でも発信できると言うことはプロとアマの境って無くなりつつあるんじゃないかなと思っています。

元々ラジオやってた人も別に誰かに資格を与えられてやってたわけではないし、たまたまラジオ局に入ったりとかたまたま有名人だったから声が掛かった訳で、聞いてくれる人が多い話してならだれでも良い訳で。

お金が発生しているからプロと言えばプロというだけであって誰かに認められている訳ではない。

実力とかそういうものは全く関係ないから、アマと言われている人の方が話が上手い可能性は十分ある。そう考えるとプロだからとかアマだからとかそんなんは無くなっている訳ですよね。

それでも僕自身はアマチュアだと思っています。

だって何も伝えることがないのにただひたすらにこうやって語っている訳ですから、そんなのアマチュアがやることでしょ?

プロは発信することに何か意義を持っているはず。出ないとプロ名乗ってはいけないと僕は思っている。

そんなことを言うとちょっと自分の首を締めることになるかもしれないけど、プロとアマの差ってそういうところにあるのではないかと思っている。

 

そんな戯言を言っているとあっという間に前半が終わってしまいましたね。

このあたりでコマーシャルを挟みたいところですが、アマ中のアマなので、誰もスポンサーがいません。

誰か宣伝したいことがあったら、教えてください。

当局では宣伝をしても何の効果もないかもしれませんが、最低でも僕は宣伝をしっかり聞いていますので、一人には届きます。

もっと聞いてくれている人がいたらまたその辺も変わってくるかな。

乞うご期待と言うことで、僕の宣伝したいことを書いていたらいいかな。

ほんまのラジオでもそうですもんね。スポンサーがついてない番組ではひたすら番宣が入ることが多いですもんね。

かと言っても僕が宣伝したいことは実は何一つなくて、ただ文章ひたすらに書きたいだけです。

こうやって書いている時間が今の僕の癒しの時間です。

他にもいろいろとあるうちの一つです。

他にも癒しの時間はあって、草刈りです。

草刈りは現在手刈りで行っているのですが、これが殊の外没頭出来ていいんですよ。没頭できるとネガティブをつぶすことが出来ると昨日Twitterで見て、なるほど確かにそうだと思ったんですよね。

没頭=癒し、だと僕は感じています。

後癒しじゃなくて、本当に治癒を促すというところで言うと睡眠は最高ですね。

自分史上最高に睡眠が好きになっています。

今まではもったいないと思って早く寝ることを避けていたけど、今は最高の時間になっています。今睡眠を取り上げられると僕は生きていけません。そんため、オールナイトのイベントなどには行けなくなるのは残念ではあるのですが、そんな年齢でもなくなりつつあるので、ちょうどいいかなと思っています。

友達にはジジイかと罵られることも多々ありますが、それ以上に睡眠の恩恵を受けているので、全然気になりません。

もっと睡眠の大事さをみなさんに分かって欲しいです。おそらく全国民が22時には眠ることが出来たらすごい節電になるのではないかと思っています。

経済活動の上でどうなるかはわかりませんが、朝方生活に変えるようにもっと政策として取り組んでほしいぐらいです。

睡眠は健康にもどう考えてもいいわけですから、医療費削減を目論んでいるとしたら本気で睡眠に対して取り組んだ方が良いに決まっています。

訳の分からない予防に取り組むより最も効果的な対策が睡眠です。

とにかく寝ましょう。

そうか睡眠をもっと大事にしようというテーマが僕にはあるのかもしれません。

これは宣伝に使えるな。

これ宣伝していきますわ。

なんで睡眠が大事なのかと言うことをちょっとずつ挟んでいけばいい訳ですね。

なんとなく進行の仕方が分かってきましたよ。

オープニングでその日とか前日に会ったことを話して、一つ目のコーナーに入って、前半は終わって、その後宣伝で伝えたいことをちょっと伝えて、後半のコーナーに入って、エンディングを迎えると言う流れがそれっぽいのかな。

そんな感じでやっていきますわ。

なんとなく流れがつかめたような気がしますよ。

 

ということでもうエンディングの時間になってしまったのですが、いかがでしたかね。

記念すべき2回目の頭の中のラジオ局でしたが、お聞き苦しい点はありませんでしたか?至らない点が多々あったととは思いますが、なにせテキトーに何も考えずに始まっていますので、そこは寛大に見て頂ければと思っています。そうでないと続きません。皆様の寛大な心と僕の飽き性がどうなるかというこの二点にかかっていますので、是非とも温かいお言葉頂ければと思います。

では今日はこの辺でまた明日。

 

大丈夫、きっと上手くいくよ。

頭の中のラジオ局

昨日の続きみたいな感じ成るけど、僕はずっと独り言を話している。

頭の中で出てくる話題を無作為でテキトーここに出して来ている。

だからどうと言うのではないのだけど、ずっとそんな感じ。

ラジオみたいな感じだなと思っている。

とりあえず始めの方は今日の気になっている話題をフリートークで話してみて、その次の話題に移って、また次の話題みたいな。

だからどんどんと話題が変化して行って、最終的に別にその日のテーマはなかったみたいな感じで進んでいる。

それだと無限に書けると思っている。

頭の中から言葉が消失することはないと思っているからひたすら書ける。

いや、そんなこともないかもしれませんけど書けるような気がしている。

別に本当のことを言う必要はないので、断言してしまってもいいのだけどなんかちょっと気が引けている。

テキトーにやっているが故に言葉使いも結構テキトーになっている。未だに敬語がいいのか、普段通りの関西弁がいいのか、標準語が良いのか迷っている。

その時の気分に合わせているから、多分読みにくいだろうなと思っているけど、なかなか統一できない。

標準語で行こうと思っているとたまに標準語ではないと後になって気づく。でも修正しないめんどくさいから。それに生放送のラジオだと発言したことは後で修正できたとしても発言したこと自体は消えないから、まあそれはそれでライブ感があると思っている。

ライブ感で言うとラジオでも噛んだらそれ後で訂正はできるけど、消せない。

それと同じで誤字脱字に関しても、噛んだと思ってもらったら差し支えないと思っている。仕方がない。ライブだから多少のミスも許してほしい。

もし仮に書籍であるとしたら、誤字脱字はあってはならないと思うけど、この文章はそんなにかっちりとしたものではないので、別にいいかと思っている。推敲なんて必要ないと今は思っている。考えは変わるのでまた別の機会には反対のことを言っている可能性もあるけど、そんなもの。

読者のことを全く向いていないし、面白おかしいこともほとんど書いていないけど、僕はただただ楽しい。それで何が悪いのだろうかと思う。人が楽しくても僕が楽しくなかったら満足できない人間なので、とりあえず僕自身が楽しむようにしている。ここではひたすらに楽しい。どんな話題であっても楽しい。そこが良くて毎日続いている。

 

いつかテーマを持つことが来るのだろうか。

今のところ系統立てて何かを書いたことがない。

あ、ないことはないか、当初は自己紹介として色々と長々と書いたな。

そう言う時もあった。ほら、やっぱり前と今で言うことが全然違う。違うと言うか忘れていると言った方が正しいかもしれない。意見が変わったという認識は全くなくて、その時その時で本当に思っていることしか書いていない。だからタチが悪いかもしれない。全く悪びれる様子もなく、平然と依然と真逆のことを言うので周囲からはなんで?と言われることが時々ある。でも仕方がない、その時にそうだと思ったのだからそうなんであって、前がどうだったとか関係ない。

そうやって僕は生きてきている。前言撤回しないのに全く意向を変えている。でもライブだから仕方がないよなと。前と違うからと怒らないでほしい。でも他人がそんなこと言うと烈火のごとく怒る。そうめんどくさいのだ。他人に対しては非常に粘着気質。ひどい人間だと思っている。でもそんなところが良いのではないかとも思っている。

どちらにしろ、その時に生きやすいと思う選択しかしてこなかった。先のことを見越して、何かをやっておくと言うことはない。それでも後になってみると意外とその選択は間違ってなかったと言うことは多い。何者かの力によって救われているんだろうなといつも思っている。運の力と言うのはすごい。

これまでの人生ほとんど運で生きている。

なぜここまで巡りが良いのかと思うぐらいに運がいい。

運というのかタイミングと言うのか絶妙。

どんな環境に移っても自分の居心地が良い環境が自然と出来上がっていく。

どうやったらそうなるのかよく分からないけど、基本的にはそうなる。

自分が何かを行動を起こしている訳でもないのに。

それが不思議で仕方がない。

やっぱり守護霊的な僕自身を守ってくださっている方がいらっしゃるのかなと思ってしまう。

かつてそんなものが分かると言う人に見てもらったことがあるけど、それなりの数の人たちが僕を見守ってくれているそうで、特にその中でも強力に協力的な人は根無し草の女性だそうで、フラフラ生きていると守ってくれているそうな。

ずっとそんな生活しているので、その方が守ってくれているのかもしれない。

有難い話だなと思っている。直接面識はないけど、たまにこうやって思い出した時には感謝を述べている。

 

全く話変わるけど、昨日からちょっと始めたことがあって。

早食いのクセがある僕なのですが、ちょっと発明がありました。

ちょっとでも多く噛むための発明。

ひと噛みごとに美味しいと言う。

言うって言っても言葉に出すのではなくて、頭の中でのことだけど、ひと噛みしたら美味しいと頭の中で言う。

結構これが良くて、美味しいと念じるともっと美味しくなるし、その瞬間が多いほど美味しい訳だから何回も噛む。結構延々と出来るから、これは早食い対策にはいいのではないかと思っている。

美味しい瞬間って口に食べ物を入れた瞬間だけに訪れるものではなくて、咀嚼した時にも感じるものだと気づいたから、それだったら何回も美味しいと念じながら咀嚼回数を増やすことで美味しいを連続で感じることができるんだからこんなに幸せなことはない。

一口目の衝撃を感じることをモットーにしてきた訳だけど、一口目のその先に三昧があったとは思わなかった。これは良く噛んだ方がいいなと改めて感じることができた。

美味しい三昧最高です。しかも一回の食事でかつ同じおかずでも三昧が出来るんだと思うとこんなにも所謂コスパが良いのはないだろうと思う。しかもセルフでいくらでも美味しいを増やせるんだからこれは革命的なことだと思っている。

これから食事がますます楽しみになる。外食の時はそんなことあんまりしないだろうけど、家の食事では美味しい三昧を楽しみたいと思う。

 

大丈夫、きっと上手くいくよ。

独り言はあっちこっち行く

毎日同じことしていると安定する。

ここのところほぼ毎日同じような生活をしている。

夜22時ぐらいに寝て、5時ぐらいに起きて。

ウンコして、書いて、メシ食って、仕事行って、メシ食って、風呂入って寝る。

同じような毎日を送っていることでちょっとは飽きるかなと思っているけど、中々飽きない。

なんでだろうか?同じことをするのが基本的には嫌いで、続くと飽きる傾向にある。

いや続いても飽きないか。実はそんなに飽き性ではないのかもしれない。

飽き性ではないかもしれないと思う要因の一つに、自分で弁当を作っていた時、三カ月以上毎日同じ弁当だったことがある。それでもその当時はなんとも感じなかった。むしろどうやったら同じ弁当でも美味しく出来るのか、見栄えが良くなるのかと言うところに焦点を置いていたので、内容が同じであると言うことに目が向かなかったのかもしれないけど。

僕にとっての飽き性と言うのは続くことが嫌とかではなくて、見切りが早いだけで、なんでもすぐに飽きてしまうと言うのではないようだ。

だからこれからは飽き性ですというのではなくて、見切りが早いですと言った方が適切かもしれない。

見切りが早すぎてもちろん損をしていることもたくさんあるかもしれない。でもなんとなく、これは続けてもなと思った直感を大事にした方が良いなとも思っている。

 

むしろ直感を大事にして生きてきたから今があるような気がする。

 

直感って別に優れている訳ではないけど、それでも無駄に時間かけて同じけつろんになるんだったら少しでも早い方が良いと思っている。

あんまり熟考することがない。そうでもないのかな。

今現在実は次にどんな仕事をしようかと考えている。

今の仕事を早く辞めたい。

辞めたい理由はいくらでもあるけど、ここで行っても仕方がないから書かない。

どうせネガティブな言葉しか出てこないから止めておく。

今の仕事を辞めたいと思ったのは10年近く前の事、一旦辞めたけど、また同じ仕事に就いている。

それは新しい選択を僕が出来なかったからだ。

あの時別の選択を出来なかった時点で、実は先は決まっていたのかもしれない。

一度辞めた時に新しい選択を出来る可能性はいくらでもあった。

でもしなかった。過去に経験のあることを選びたくなってしまった。

その辺が僕の弱さで、ちょっとした冒険しかできない。

とりあえずその時した僕の選択としては仕事を変えるのでなくて、住む場所を変えると言う選択だった。

その選択をしてから住む場所を変えることが何度か続いている。

職ではなくて、住む場所を変える方が楽だし、変化も少ないような気がしている。

その場所に根付いて、人とのつながりを蓄積していくことが良いようにも言われているけど、全くそんなこと考えたこともない。

 

全くまた話が変わるけど、今日の文章を書いていて思ったのは、

食には全く興味がないということ。

食事に関しては基本なんでもいい。美味しかったら。

そこにこだわりはないようで、肉、魚、野菜などなんでもいい。

環境に良いとか、自然の摂理とか全く気にしてない。

そこは多少悪いものが入ってようが、自分の口に合いさえすれば別になんでもいい。

気にしない。

だから高級品が食べたいとか、憧れるとかは全くない。

流行りものにも興味がない。

食にこだわりがないということが分かって、とても嬉しい。

変にお金をここで使うことがないから、別のものに使える。

ばか舌で良かった。

 

それとあと仕事に関しても実はあんまりこだわりがないみたい。

手段的に仕事を利用しているだけで、住む場所の自由さがあるからこの仕事を選択している可能性が高い。

仕事はあまり好きではないけど、どこでもできるという自由度が高いことに魅力を感じて、この仕事している可能性が高い。

そう考えると少し気が楽になった。

サラリーマンなんてやめた方が良いとか、自分のしたくない仕事をするなんて時間がもったいないと言われるけど、住む場所に自由を与えてくれると考えるとそれはそれでいいのではないかと思っている。

仕事も住む場所もどちらも自由って僕にとっては望みが高すぎるのかもしれない。

いつかそうなれるといいのかと思うけど、今のところ何がいいのか全く思いつかない。

 

まとめると僕は実は現状に結構満足している。

そんな感じがする。

ここでも否定的なことを書くことが減ったように思う。

それがまずすごいことだと思っている。

前書いていたブログでは書くとなると愚痴しか書いてなかった。

それだと全然続かなかった。毎日書こうと思ていたけど、内容が内容だけに書くと結局は嫌な気分になるから書いてなかった。文章に気持ちを込めすぎていたのだと思う。

今は全く文章に気持ちを込めていない。

気持ちを込めていないと言うとちょっと語弊があるかもしれないけど、重みを出さないようにしているつもり。

そんなことするとしんどくなるから。

僕のしんどくなるポイントとしては重みなんだと思う。

重みって時には大事だけど、そんなしょっちゅう使うことでもない。

使いすぎると身体が重くなって身動きが取れなくなるのではないかと思うし、以前はそうだった。ノートに書くのもめちゃくちゃに重み載せてた。

それではいかんと思う。疲れる。

心を費やしすぎたのだと思う。

坐禅でも心を費やさないと言っているから、基本的には心費やすような行動は避けた方が良いんだと思う。心を費やさないのが習慣的になってくると生活が軽やかに楽になるんだろうなと思う。

もちろん坐禅の目指す方向性としては日常生活を楽にすることではないので、考え方としては間違っているかもしれないけど、坐禅からヒントを得るという点では僕にとっては役に立っている。

 

そう言えば坐禅最近してないな。

一時期は結構ハマって毎日やっていたけど、高尚すぎて僕には続かない。もうちょっと適当なぐらいが僕にとっては良いのだと思う。

格式が高く感じる。もちろん仏のやっていたことはどんなことだったんだろうということを感じるためのものだから、高尚なのは当然だし、格式が高くなるのも当然。でもそれだと僕は続かないので、今は寝床体操と操体法の基本体操で結構テキトーにやっている。

僕にはテキトーが適当なんだと思う。

 

大丈夫、きっと上手くいくよ。

現実とは人から見られているという妄想

今日の朝はちょっとひんやりしていたけど、それが最高に気持ちいい。

湿度が少ないと言うことは最高だ。

やはり気温より湿度により気分の浮き沈みがあるような感じがする。

にしても今日は最高の朝。

鳥のさえずりもいつも以上に心地よく聞こえる。

昨日までと何も変わりはないけど、感じ方が違う。

同じ環境でも人それぞれ環境が違うと言うのが良く分かる。

同じ人間でもこれだけ違うのだから個体差があれば尚のことそうなのだと思う。

個別のフィルターを通すと全く違う現実があるのだなと。

そう考えると現実とは一体何なのかと思う。

人それぞれ違うのだから、現実とはやはり曖昧なものだと思う。

それは坂口恭平さんが言ってからそのままパクっただけだけど。

現実って何なのかと思う。そんな曖昧なものに縛られているのも馬鹿らしいと思う。

でも恭平さんの本に書いてあったのは現実と書いて常識とか一般とか普通とかそういう意味で現実と書いていたのかと思う。そんなものに縛られる必要ないと。でもどうしたらいいか書いてあったはずなのにそこはあんまり覚えていない。

現実から離れるためには何が必要なのかなと。

やっぱり何か好きなことに没頭することなのかなと思っている。

こうやって書いている間は現実には僕はいない。

この文章の中にいて誰からも邪魔をされていない。

やや思考は何らかのものに影響されている可能性はあるけど、存在自体は自由な状態にあると思う。

何を書いても邪魔されない。文章の中に今だけは生きているように思う。

だからと言って別にめちゃくちゃ幸せだ言える訳ではないけど、浮遊感と言うのか気持ち良さはやっぱりある。

重力のような重苦しさを感じるようなことはない。

ただフワフワとしているだけ。文章の内容がフワフワしているのがそれを物語っているように自分では感じる。ただの妄想でしかない文章。

今週は比較的楽に書けるような気がしている。

実際の生活状況は何一つとして変化はない。

毎日22時頃に寝て5時ぐらい起床。

トイレでウンコが出るのを携帯を見つめながら待ち。

その後パソコンを開いて自由に書く。

書き終われば飯を炊き、最近は寝床体操をする。

朝食を食べ、朝ドラを見て、出勤の準備をする。

仕事は相変わらずモチベーションが低いとかではなくて、とりあえず嫌なのは一ミリも変わっていない。

8時間の定時を終え、帰路につく。

食事をして、ゆったりとして、また22時に眠る。

こんな毎日を過ごしている。

仕事時間はもしかしたら僕は仮死状態にあるのかもしれない。ほとんど覚えていない。

ある意味寝ているのかもしれない。瞑想状態か。あっという間に毎日仕事は終わる。何も感じていない。もしかしたら嫌ではないのかな。でも毎日出勤時間になる時が重くなってくる。今日は上手くいくのかなと。上手くいかなかったらどうしようかと思っている。この思考すら日課になってしまっている。この日課をちょっと変えるようにしよう。

確か恭平さんは上手くいかないのはその人の性格とか体質ではなく、日課のせいかもしれない、日課のせいにしたらいいみたいなことを言っていたような気がする。だからちょっと日課を変えてみるのが良いのかもしれない。

今の朝の時間をちょっと変え見た方がいいかも。もうちょっとアクティブにした方がいいかな。ダラダラ過ごしすぎかもしれない。そこがネガティブを生む一つの要因かな。

寝床体操は寝る前だけにして、朝やるのは橋本敬三さんが書いてた体操にしようかな。

それは立ってやるやつだし、そっちの方が朝は活性化されていいのかもしれない。

ちょっと変更してしばらくやってみよう。

それだけでもなんか変化するかな。

変化自体が僕の中では重要な者であって、内容と言うか結果は別に重要なものではない。

だから色々試すだけで振り返りとかあんまりない。

こんな体質に合うものは一体どんなことがあるのだろうか。

過去を振り返らなくても出来る仕事はないものだろうか。

それが見つかればもっと楽に生きられるのになといつも思う。

過去の蓄積の上にしか今がないとするなら僕にとっては難しい。

蓄積の量から行くとかなり小さい山しかできない。

山ではなく、丘でもない。山と言っても自分の手で掻き寄せて作れるぐらいの砂山ぐらいでしかない。

砂山だと直ぐに形を変えてしまうので蓄積などあるはずがない。

まあそんなもんだと理解するしかないかな。

それで苦しみから解放されるならそれでいいと思っている。というか方法はどんなんでもいいから解放されることを望む。

そうかどんなんでもいいと思っているのに、いつの間にか体裁気にしてどんなんでもいいと思えてなかった。そこに気づけなかったのが恥ずかしい。

僕は周りの目を気にし過ぎて思うように動けてなかった。

ただそれだけの話かもしれない。

周りの目、所謂現実にやはり囚われていたように思う。

誰も僕なんかを見てないはずなのに、多くの人が僕を見ているように思っていた。

実際にこの文章を書いている時は誰の目もないと認識できているので、好きなように振る舞えている。そうすると心はすごく軽やかになっている。

そうか胸の苦しみは他人から見られていると言う自意識過剰による、しばりつけかもしれない。僕はセルフ緊縛してたのかも。なんと気持ち悪い。緊縛して悦に浸っていたのかもしれない。そうなのか。苦しみを楽しんでいるなんて、僕にはそんな趣味はないと思っていたけど、あったのか。意外だ。

まあそんな趣味はないけど、自分をしばりつけるということがあるのかとわかっただけでも良かった。

人の目と言う現実から離れられるような日課を見出していこう。

 

大丈夫、きっと上手くいくよ。

良いなと思える瞬間がたくさんあるといいな

やっぱり本が好き。

本を読んで何かを学びたいとかあんまり思ってないけど、興味を惹かれる本は多くあって、人が紹介している本があると読みたくなる。

読んでから何かが変わるとかもあんまりないけど、それでも本を読んでいると楽しい。

書くのと同じ。書くのも何かが変わるような感じもないし。何かのために書くとかはないけどとりあえず楽しいから、書いている。

そう言うのが多いとほんとに生活充実しているなと感じる。

今のところ、その候補に関して言うと。

書く、読む、農トレ、運動ぐらいか。あと寝る。

これで一日あっという間に終わりそうな感じする。

これだけを毎日続けられると幸せなのになと思う。

これまで好きがはっきりしてなかったけど、最近は好きがおぼろげながら見えてきた。

好きが分かるとやっぱりいいと思う。

好きが分かるためにはたくさん試す必要があった。

才能のある人は自分の好きをすぐに見つけられると思う。

そこが凡人と才能のある人の唯一の差だと思っている。

それ以外には大差がない。

巡り合わせなので、運もあるか。

好きが人生の早い段階で見つかるとあっという間に充実してくるのではないかと思っている。

好きなことが早く見つかればそれを出来る時間がそれだけ多くなると言うことだから、それだけでまず幸せだし。

好きなことをするためにはどうしたらいいのか考えるから、時間の使い方も上手くなるような気がする。

 

好きなことを一発で見つけられた人はすごく羨ましい。

他の人から見たらそれしか知らなくてもったいないとかかわいそうとか思われそうなところだけど、その好きを見つけるために生まれてきているとしたらすぐに一発で見つけられるほど良いことはない。回り道をする必要がないのだから。

 

僕の場合は本当に色々と試さないと見つからなかった。

見つからないことはなかったかもしれない。

どちらかと言うともっと自分に合うものがあるはずだと放蕩し続けていたのかもしれない。

完全なる青い鳥状態だと思っている。

実は身近に幸せはありました。みたいな。

そんな感じです。本は小さい時から好きだし、書くことは好きと言うよりたくさん書いていたのは確かだし、野原で走り回ることが好きだったし、良く寝ていた。

この反対ばっかりをしていたので、しんどかったんだと思う。

都会的な生活に憧れ、酒も飲めないのに夜の街に繰り出したくなったり、おしゃれなことにも挑戦したりと。本来の僕の好みから離れるようなことばかりをしようとしていた。

それがそもそもの苦しさの原点かもしれない。

困ったら過去に何が好きだったかを振り返るだけで良かったのかもしれない。

どうしても好きが見つからない場合は、色々試してみるのが良いかもしれない。

こんなはずはないと思って、色々試すことも大事だし、新しい発見があるかもしれないけど、無いものねだりではないけど、自分に相応しいものは意外と身近にある。

なんかこの話って妥協しているように聞こえるかもしれないけど、妥協かもしれない。

妥協しても満足感得られるなら結構なことではないかなと思う。

上を見て頑張り続けることも大事だし、それを生きがいにすることも出来ると思う。でも今の状態に満足してもいいと思う。

一生成長し続けたいと言う高尚な考え方もあるだろうし、僕みたいにそこそこでいいと考えてもいい。

とりあえず他人の意見とかはとりあえず置いておいて、自分が満足出来たらそれでいい。

自己満足が何よりも優先される事項だと思っている。

それがないのに何か事を興すということはできない。

まずそこが何かと言うことが一番重要なんだと思う。

他人に何かしてあげることに満足を得られるならそれでもいい。

本当になんでもいいなと最近思って来た。

どうでもいいではなくて、なんでもいい。

特にこだわりはない方が人生楽しめるんじゃないかな。

こだわりが自分の首を締めることなんてよくあること。

その場その場で好きが変わることもあるし、好みの変化なんてあって当然。

ずっと好きでいられる幸せもあるし、心変わる好きがであっても幸せだと思う。

好きと幸せは直結しているように思う。

好きな時間を沢山持てるように生きて行きたい。

どうやったらそれが実現するのか。

好き嫌いはっきりさせるのが今のところはいいのではないかと思っている。

曖昧でいると曖昧な時間が増えるだけ。

一つでも好きが見つかれば、そこから派生してどんどん広がっていくと言うか、好きな時間が増えるような気がする。

好きがたくさんなくてもいいし、好きがたくさんあってもいいし。

とりあえず好きなことをしている時間がたくさんあるほど充実するのだと思う。

 

充実と言う言葉が良く分かっていないかもしれないけど。

まあ良かったなと思えたら充実しているんだと思う。

好きとか言うと難しいような気もするから、気持ちいいなとかでもいいのかな。

空を見て気持ちいこともあるし、雲の形に感動するとかでも良いし。

とりあえず気持ちが上がるようなことが毎日たくさんあるといいなと思う。

今日もこうやって書いていること自体が気持ちが上がっている。

文章の内容が沈んでいようが、書いていると言うこと自体が気持ちが上がっている証拠。

この辺を表現する言葉を持ってないけど、じっくり考えるのもめんどくさいから詳細には説明しないと言った方が正しいか。

とりあえず好きな行為に関しては精神状態がどうとかはあんまり関係ない。

好きな行為と言うのは欲だと思うから。

欲は落ち込んでいてもある。

精神状態に左右されないようにするには欲のままに生きたらいいのかな。

まだわからないけど。

とりあえず好きなことを列挙して、生活に当てはめて、とりあえずやると言うことが良いのかもしれない。

健康になれる秘訣はそういうことなんかな。

坂口恭平さんが言っていることはそういうことなのかな。

せっかく恭平さんがシンプルに分かりやすく伝えてくれているのに自分で勝手にややこしくしているような気がする。

まあしっかりと深く読もうとしていると言うことで良しにしておこう。

 

今日はこの辺にする。

 

大丈夫、きっと上手くいくよ。

昨日はしばらく海の上にいたからかフワフワしている。

毎日が過ぎていく。

ここのところ本当に早い。

もうすでに7月も1/3が終わった。

というか今年も半年過ぎている。

何でこんなにも一日が早く過ぎていくのか。

良いことなのか悪いことなのかわからないけど。

死にたくなったりしないから、良いことなのだろう。

僕は生まれてきてこの方死にたいと思ったことはない。

それは本当に幸せと言うことなのかな。

死にたいと思いながら生きていくことほど辛いことはない。

だって思いとは真逆の事を毎日しなければならないんだから。

死にたくても身体は毎日動いている。勝手に死ぬことはできない。

そんな毎日辛いだろうなと思う。

想像しかできなくて、体感できていないからどの程度の辛さなのかはわからないけど。

 

体験・体感したことがないことに関して安易に共感することは苦手。

もちろんそれが気遣いと言うことなのかもしれないけど。

悩み・苦しみを抱えている人は似たような体験・体感をしたことがある人にいつでも相談できればいいのになと思う。

そうなれば検討違いな返答が返ってくることがないし。

無理に結論を急がされるようなこともないだろうし。

相談の窓口がないことが辛さの元凶なんだと思う。

悩み・苦しみを抱えていることは誰しもあるけど、ドンピシャで答えてくれる人がいればそこまでどん底に落ちることはないのかなと思う。

と言うことはこの辺普通の人間には出来ないから、AIにになってもらうのが実はいいのではないかなと思っている。

深層心理を理解できるのは相手のことを思える気持ちではなくて、当事者の心理的な状態を冷静に判断して、何を求めているかを的確に捉えられる分析眼ではないかと思っている。

多分こんなこと言うと冷酷なやつと言われるかもしれないけど、相談した相手にわかるよと言われても、何の解決にもつながらないと思っている。

分かる世ではなくて、その悩み・苦しみを乗り越えられるアドバイスを状況に合わせて教えてくれたら一番いい。

そう思うのはカウンセラーが学んできたことって、自分の体験ではなくて学問として心の問題を捉えてどうしたら悩み・苦しみを抱えている人を救えるかと言うことだと思っているから。学問なんだから結局は過去の研究から得られたデータを元にどのような対応が適切かを判断していくもの。そこに曖昧な相手の気持ちを思いやるということをやるとあまり意味がないのではと思う。

 

とは言え個人差があるから結局は悩み・苦しみをドンピシャで解決できるような方法はないのだろうなと思う。

そもそも現実にないものを手にしたいという悩みがあったとしてもそれを解決する方法などない。

でも仮想現実の世界なら不可能はないのかな。

脳ミソ自体を騙すこと出来れば可能になるのかもしれない。

そうなると一生仮想現実の世界から帰ってこれずに彷徨うことになるというリスクはあるかもしれないけど。

それでも一定数はそれでもいいと思える人もいるかもな。

映画のマトリックスみたいな世界がいいとは思わないけど、それでも僕とは違う考えの人もたくさんいると思うから、求める人はいる。

誰の悩みも解決できる方法があれば、もっと世の中良くなるのになと思う。

人生のどの時期に起こるかわからないけど、悩み・苦しみを抱えてそれがどうにもならなくなると人はおかしくなっていくのかもしれない。

 

何で今日はこんなことを書いてしまったのだろうか。

良く分からない。

今日はこんなにも爽やかな天気で日曜日なのに。

そうか今日は日曜日か。

日曜日ということは明日は月曜。

明日からまた仕事が始まると無意識に考えることによって変な思考が始まっている。

 

昨日は久しぶりにSUPをした。

最高でした。そんな最高な時間ってなんであんなにあっという間に終わるのかと思う。

もっと続けていたい。

楽しいことばかり、自分のやりたいことばかりやっていてはいけないと小さい時に教えられたような気がする。

嫌なこともやらないといけない、苦手なこともやらないといけない。

なんでそんなことを家でも学校でも教えていたんだろうと思う。

苦しいことを経験していないと社会に出る時に大変だともいわれた。

大人がやらないといけないのは教育は確かに大事だと思うけど、子どもが社会に出た時に苦しまなくていいように良い社会を作っておくことも大事ではないのかな。

自分のやることをやらずに子供の方ばかり向いて教育するばかりでは、子どもが社会に出たときに苦しむのは当たり前。

社会にあった教育をしておかないと時代に取り残されて当然苦労する。

良い社会になるように行動しつつも、教育するというのが必要なのだろうと思う。

まあ偉そうなこと言っても僕には子供がいないので、その辺はあまり気にしていない。

子どものことを考えて行動したことなどない。

かと言って子どもを嫌うこともないし、いるともちろん楽しい。

子どもと遊ぶのは本当に楽しいと思う。

子どもがいない人でも子どもと遊べると子どもも大人も可能性が広がるような気がする。

そんな世の中まず来ないと思うけど、色んな人が楽しく交流出来た方が楽しいことは起こるのかもしれない。僕は人見知りなので、そんな世界には入って行かないけど。

世の中にはそういう繋がりを求めている人って多いんだろうなと思う。

だから今みたいな状況は辛いんだと思う。

 

そう言えばあとちょっとで投票日やな。政治なんて興味がまったくないけど、生活の困りごとを解決するのが政治だとどこかで見たので、僕の生活の困りごとがどこにあるのか見直して、候補者を見てどうやって解決してくれるのか見てみよう。

ちょっとは世の中に関わるような行動もたまには必要かな。

 

本当に今日は雑記だったな。

ここまであっちこっち行くのも珍しい。

今の僕の心の中がそれだけあっちこっちに行きたいと切望しているのだと思う。

そんな時は特別な目的はなくても家の外に出ることが僕にとっては大事。

むしろ目的なんて持たずに出る方が尚良い。

出ることで外界に触れ普段と違う世界があると言う認識が出来るだけで、また落ち着きを取り戻すことができる。

そうやって日々と折り合いを付けながら生活している。

 

大丈夫、きっと上手くいくよ。

排泄からの妄想。

いや、今週はなんとしんどかったことか。

先週末の疲れが後を引いていた可能性はある。

2日で三万歩ぐらい歩いたから。日頃そんなに歩かないのに歩くとなると急にたくさん歩くから、そのせいで疲れが抜けずしんどかったんだと思う。

雨も多かったしな。これからまだしばらく不安定な天気が続きそうなので、まだまだ愚弄されるような気がするけど、それでも今日の朝はなんだか爽やかな感じで気持ちいい。

それはおそらくさっき大量の排便があったからだと思う。

体内の内容物が体外へ排出されるときの快感とその後の身体の変化により周囲の環境が全く違ったものに見えるという錯覚が生じているのではないかと思っている。それぐらいに排出すると言うのは大事なことだと思っている。

思えば今週はやや糞詰まり傾向にあったように感じる。

でるのはでるけど、チョロチョロですっきり感が全くなかった。

そのために倦怠感が強く感じられたのではないかと思う。

 

僕の精神は簡単なものだなと思う。

天候に愚弄され、便に悩まされ精神的に不安定な状態となる。

他の人たちもそうなのかな?それだけのことでしんどくなったり、気分良くなったりしているのかな?

そうであるなら、そこって対策立てようがあるかもしれないから、みんな意識して生活したらいいのにと思う。

僕が思う健康のポイントは寝る、食べる、動くぐらいだと思っている。

精神的な活動は殊更に意識する必要はないと思っている。

この寝る、食べる、動くを丁寧にやればそれなりに精神は安定してくるように思う。

まだまだ実践結果はでてないけど、それで十分だと思っている。

操体法橋本敬三さんも言ってるもんな。

健康に必要なものは息・食・動・想って。

呼吸を長く、ゆっくり噛んで食べて、適度に動いて、日々に感謝しろみたいな感じで。

僕の思っていることと全然違うな。

僕の方がシンプルすぎるかも。でもシンプルほど良いと思っているから。僕は寝る・食べる・動く。これだけでなんとか健康な生活を続けて行きたい。

寝ることを大事にすると言うことは日々の生活を規則正しく、太陽に合わせた生活をすると言うことで、基本は22時就寝の5時起床。太陽に合わせたと言いつつも冬場はそんなに早く太陽が早く上がってこない。だから冬はもっとたくさん寝たらいいと思う。

食べることを大事にすると言うことは食事の内容もそうだけど、ゆっくりと噛んで食べると言うこと。ゆっくりと食べることで消化における身体の負担を減らすことが出来る。とか言いつつも僕は結構な早食いでこれはまだまともに実現したことがない。そのおかげで便秘と下痢を繰り返し、胃部不快も生じているのだと思う。日々に感謝し、味わえてないのだと思う。僕の至らない部分としてはあとはここだけだと思っている。

動くことを大事にすると言うことは、とりあえず動くと言うことだけ。何か特別なエクササイズは必要がないと思っている。出来れば生活に直結するような動きが良いと思っている。生活のなかで動けば特に運動する必要はない。動物がそうだと思う。野生の動物は散歩なんてしない。日々餌をとるために動くから自然と運動出来ている。でも籠の中で飼われているハムスターはクルクル回る車輪の中でひたすら走り続けている。フィットネスクラブでトレッドミルの上を走っている人を見るといつも車輪の中を走っているハムスターを思い出して悲しい思いになる。動くってそう言いうことではないと思うんだけどな。でも現代人は忙しいから仕方ないのかな。

 

僕はこの寝る・食べる・動くが大事だと思っているけど、今の世の中この3つを如何に効率良く行えるかしか考えてない。より短い時間でより高い効果を得るためにどうしたらいいのかばかりを考えている。その発想自体がすでに病的だと僕は思っているけど、そんなことないのかな。

効率的にやって後の時間はどんなことに充てているのだろうか。教えてほしい。僕はあんまり効率の良い生活をしていないように思う。

効率の良い生活の良さはどんなところにあるのか。

効率の良さを追求した世界が、ハクスリーのすばらしい新世界みたいな感じだと思う。こんな感想は月並みの発想だとは思うけど、まあ実際その方向に進んでいるような気がするから怖い。僕みたいな普段何も考えてないような人間でも容易に予想できてしまう方向に世の中が進んでいるように感じる。

自力でウンコしない世界がすぐそこまで来ているのかもしれない。

ウンコする快感を忘れてしまうなんてもったいない。

でも未来の人からしたら、昔の人間は肛門からウンコという物質を垂れ流していたらしい。なんと不衛生で程度の低い生活をしていたのだろうかみたいなことを思うのかな。

いやたぶん思うんだろうな。

寝ることだって自分で管理すると言うよりも、おそらく特別なベッドがあってそこに横になると現在の健康状態がスキャンされて、今の状態だと〇時間の睡眠が必要になりますみたいな感じで、その睡眠時間が取れるようにガス状の睡眠薬がベッドから放出され既定の時間になると覚醒するように管理されるんじゃないかな。

太陽の光で目覚めるのではなくて、覚醒しやすい程度の人口の光を当てられて目覚める。

睡眠時間中にさらに身体の状態が綿密に検査されて、一日に必要な栄養素などを計算した食事が提供される。しかもその食事は原型を成しておらず、カプセルで一飲みできるようになっている。なんと効率的。食事の時間は一切かからない。好きなことに時間を避ける。

動くことに関しては、なんかすごい椅子に座って、腕と足と身体が固定されて、機械が適当な負荷を加えてくれて数回で済むように調整してくれるとか。

 

僕の創造力が乏しいせいもあるけど、何が楽しいのかなと思う。

仮にこれで仕事がないなら別にいいけどなと思う。

こんな世界に住んでいるのに労働がもしあるとしたら、地獄でしかない。

労働もどうせ機械の管理ぐらい。いや、こんな世界でエラーの多い人間が、機械の管理すらやらせてもらえるはずないか。自分の健康管理ですら機械に任せないと出来ない人間がより精密な機械を管理できるはずがない。

どう考えても楽しい想像ができない。

今の時代に生まれることが出来て良かったと思う。

まだまだ不便を享受することもできるし、ハイテクの恩恵を受けることもできる。

中途半端な過渡期だからこそ面白い世界なんだなと思う。

そんな日々に感謝しながら今日も一日過ごしていこう。

 

大丈夫、きっと上手いくよ。