いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

現実とは人から見られているという妄想

今日の朝はちょっとひんやりしていたけど、それが最高に気持ちいい。

湿度が少ないと言うことは最高だ。

やはり気温より湿度により気分の浮き沈みがあるような感じがする。

にしても今日は最高の朝。

鳥のさえずりもいつも以上に心地よく聞こえる。

昨日までと何も変わりはないけど、感じ方が違う。

同じ環境でも人それぞれ環境が違うと言うのが良く分かる。

同じ人間でもこれだけ違うのだから個体差があれば尚のことそうなのだと思う。

個別のフィルターを通すと全く違う現実があるのだなと。

そう考えると現実とは一体何なのかと思う。

人それぞれ違うのだから、現実とはやはり曖昧なものだと思う。

それは坂口恭平さんが言ってからそのままパクっただけだけど。

現実って何なのかと思う。そんな曖昧なものに縛られているのも馬鹿らしいと思う。

でも恭平さんの本に書いてあったのは現実と書いて常識とか一般とか普通とかそういう意味で現実と書いていたのかと思う。そんなものに縛られる必要ないと。でもどうしたらいいか書いてあったはずなのにそこはあんまり覚えていない。

現実から離れるためには何が必要なのかなと。

やっぱり何か好きなことに没頭することなのかなと思っている。

こうやって書いている間は現実には僕はいない。

この文章の中にいて誰からも邪魔をされていない。

やや思考は何らかのものに影響されている可能性はあるけど、存在自体は自由な状態にあると思う。

何を書いても邪魔されない。文章の中に今だけは生きているように思う。

だからと言って別にめちゃくちゃ幸せだ言える訳ではないけど、浮遊感と言うのか気持ち良さはやっぱりある。

重力のような重苦しさを感じるようなことはない。

ただフワフワとしているだけ。文章の内容がフワフワしているのがそれを物語っているように自分では感じる。ただの妄想でしかない文章。

今週は比較的楽に書けるような気がしている。

実際の生活状況は何一つとして変化はない。

毎日22時頃に寝て5時ぐらい起床。

トイレでウンコが出るのを携帯を見つめながら待ち。

その後パソコンを開いて自由に書く。

書き終われば飯を炊き、最近は寝床体操をする。

朝食を食べ、朝ドラを見て、出勤の準備をする。

仕事は相変わらずモチベーションが低いとかではなくて、とりあえず嫌なのは一ミリも変わっていない。

8時間の定時を終え、帰路につく。

食事をして、ゆったりとして、また22時に眠る。

こんな毎日を過ごしている。

仕事時間はもしかしたら僕は仮死状態にあるのかもしれない。ほとんど覚えていない。

ある意味寝ているのかもしれない。瞑想状態か。あっという間に毎日仕事は終わる。何も感じていない。もしかしたら嫌ではないのかな。でも毎日出勤時間になる時が重くなってくる。今日は上手くいくのかなと。上手くいかなかったらどうしようかと思っている。この思考すら日課になってしまっている。この日課をちょっと変えるようにしよう。

確か恭平さんは上手くいかないのはその人の性格とか体質ではなく、日課のせいかもしれない、日課のせいにしたらいいみたいなことを言っていたような気がする。だからちょっと日課を変えてみるのが良いのかもしれない。

今の朝の時間をちょっと変え見た方がいいかも。もうちょっとアクティブにした方がいいかな。ダラダラ過ごしすぎかもしれない。そこがネガティブを生む一つの要因かな。

寝床体操は寝る前だけにして、朝やるのは橋本敬三さんが書いてた体操にしようかな。

それは立ってやるやつだし、そっちの方が朝は活性化されていいのかもしれない。

ちょっと変更してしばらくやってみよう。

それだけでもなんか変化するかな。

変化自体が僕の中では重要な者であって、内容と言うか結果は別に重要なものではない。

だから色々試すだけで振り返りとかあんまりない。

こんな体質に合うものは一体どんなことがあるのだろうか。

過去を振り返らなくても出来る仕事はないものだろうか。

それが見つかればもっと楽に生きられるのになといつも思う。

過去の蓄積の上にしか今がないとするなら僕にとっては難しい。

蓄積の量から行くとかなり小さい山しかできない。

山ではなく、丘でもない。山と言っても自分の手で掻き寄せて作れるぐらいの砂山ぐらいでしかない。

砂山だと直ぐに形を変えてしまうので蓄積などあるはずがない。

まあそんなもんだと理解するしかないかな。

それで苦しみから解放されるならそれでいいと思っている。というか方法はどんなんでもいいから解放されることを望む。

そうかどんなんでもいいと思っているのに、いつの間にか体裁気にしてどんなんでもいいと思えてなかった。そこに気づけなかったのが恥ずかしい。

僕は周りの目を気にし過ぎて思うように動けてなかった。

ただそれだけの話かもしれない。

周りの目、所謂現実にやはり囚われていたように思う。

誰も僕なんかを見てないはずなのに、多くの人が僕を見ているように思っていた。

実際にこの文章を書いている時は誰の目もないと認識できているので、好きなように振る舞えている。そうすると心はすごく軽やかになっている。

そうか胸の苦しみは他人から見られていると言う自意識過剰による、しばりつけかもしれない。僕はセルフ緊縛してたのかも。なんと気持ち悪い。緊縛して悦に浸っていたのかもしれない。そうなのか。苦しみを楽しんでいるなんて、僕にはそんな趣味はないと思っていたけど、あったのか。意外だ。

まあそんな趣味はないけど、自分をしばりつけるということがあるのかとわかっただけでも良かった。

人の目と言う現実から離れられるような日課を見出していこう。

 

大丈夫、きっと上手くいくよ。