いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

自虐ネタは自分だけでなく他者も巻き込む

これわかってるんですけどね。やっちゃいけないとわかっているけど、どうしても自虐よりの話になってします。自己肯定なんていうのは僕の打ちには存在しないからですね。でもそれを外に出してしまうとそれを聞いたり、読んだりした人まで嫌な気持ちにさせるというか、「なんじゃこいつ」とか「いやいやそこまで言わんでも」とか「そんなことないよ」とか気使わせたり、フォローしてもらったりって感じでマイナスな気持ちにさせてしまうので極力避けたいと思いながら、ここは中々変わりません。

これは気質・体質というやつですね。無理に変えようとは思わないし、自己肯定していきましょうとかそんな風にも思わない。一時期そういった類の本を読んだりもしたけど、別にそんなことしても意味ないかなと最近思ってきた。結局そんなやってもちょっとの間だけですぐに忘れます。よっぽどの根気・やるき・いわきぐらいの人でないと中々やりきれないと思います。世の中全員が自己肯定感すごい高い人ばかりでなくても良いのかなと最近は思っています。

僕はどうしようもないけど、生きている。とそれでもいいんじゃないかなと。でないと強要することになるんじゃないかなと。自己肯定感が低い人に対してもっと上げていこうよ、自己肯定感高い方が生きやすいし、よいことあるよなんて言いかねない。そうなるとやっぱり窮屈になる人が出てくると思うんですよね。良いか悪いかはわからないし、単一のものだけが素晴らしいという感覚はちょっと違うかなと思う。

最近文章を書いているとこういうことばっかり言っているような気がする。「選択肢を複数用意しといてもらいたい」ということ。やっぱり、一つしかないとか、これが絶対だなんていう考え方になると窮屈に感じるからかもしれない。逃げ道を用意しておいてもらいたいということにも繋がるかもしれない。僕は何をするにも逃げ道がないと行動できない。安心感の上に行動があるような人間でチョー保守的なのかもしれない。だからこうやって今まで生きて来られたような気さえする。

どんな行動においても唐突に行動するというようなことは今までないかなと思う。唐突に思えても実は振り返ってみると結構、綿密に計画が立てられていたというか、自分の中では熟成された結果、その行動があるというようなことが多いように思う。人から行動力があるよねとか言われているけど、そこに至るまでに逡巡していたというのか熟考があったというのか長考したていたことは間違いない。今日思いついて今日行動すると言うことが一見ありそうに見えて実は今日思い出して、たまたま今日行動しただけであるということがほとんど。それまでに口に出してなかっただけで、自分の中では十分に煮詰まった結果行動する。それが急に行動しだしたなこいつと思われる所以かもしれない。

こうやって日々文章を書いていることでどんどん自分の中では何かしら煮詰められてきている。煮詰まってきたなと思っても、何かしらの情報流入によりまた温度が下がり、さらにコトコト煮詰め始めるということを繰り返している。そう、途中でなぜだか何かしらの情報がどこからか投入されてしまう。どうしてもそれは防ぎきれない。インターネットに接続している限りどうしても情報が入ってきてします。そしてその情報によりひるんでしまし、持ち前の保守的思考によりこれは再度煮詰める必要があるというような思考パターンに陥ってしまうということ。これを防ぐためにはどれだけ情報が流入しようと鍋の中身の温度を落とさないぐらい火力を強力なものにする必要がある。火力を増強するためには何が必要なのかと考える。それは「つくる」ということなのかもしれない。「つくる」という行為そのものが勢いをつけてくれるのではないかと思う。薪をつくるということですね。それは自発的な行為であり、自分の内から出てくるもの。外から出てくるものではないと思うから、こうやって日々文章を書き、火力を増大していく必要がある。

こんな風にめんどくさいことをしなくても、いとも簡単に出来ちゃう人が世の中にはいるんですよね。僕とは対極にいる人間。急進的というのか。またこいつなんかやってるはみたいな。どんだけ行動すんねん的な。そんな人間が僕の鍋の中身の温度を低下させるのです。知らなきゃいいんだけど。インターネットに接続することによって自然と流入してきてしまうんだから仕方ない。僕はこれを防ぐことをしないといけないということだと今気づきました。それでも以前よりは「自閉」し、ネットワークと繋がることを制限しています。制限しているというのか、そんな時間が減ったというのかどちらかはよくわからないけど。日課をしているとそんな暇ないということかもしれない。そういう意味でも日課を沢山することで、しょうもない時間が減らすことができるから良いのかもしれない。日課をする=何かを作る=ネットワークを断ち切る、ということに繋がっていくのかもしれない。

こうなってくると自分を否定することを減らすきっかけにはなるかもしれない。僕の場合は自分を否定する時と言うのは決まって、他者と比較した時になる。何もない時に自分を否定すると言うことはない。何か失敗した時でも、自分がダメだと言うよりは、「あの人がやってたらもっと上手くいったやろうに」みたいな思考になりがち。なんでそうなるかはわからないけど。失敗するたびに誰かを思い浮かべて、失敗の傷口に塩を塗り付けることをやりたがる。あー失敗しただけで終わることはない。

そこで人と比べると言うことはその時思い浮かんだ人のまねをしてみると良いのかなと一瞬頭をよぎりましたが、まねをするのが下手なんですよね。まねの上手な人って人のことをよく観察していますよね。だから上手いんですよ。観察して行動するのが上手いっていうよりは、観察の方がより秀でているような感じがします。そうか観察の方にもっと注力するようにしたらいいのか。どうやったらうまくいくのかを。

なるほどようやくわかってきたような気がする。表面上で情報をただ見るのではなくて、どうしてその人が行動できているのかとか上手くいっているのかという見方をすることでただの鍋の中身の温度を下げるだけの厄介な何かではなくて、良い調味料にすることができるのではないかと今気づきました。なるほど。そうかそういう観察の仕方か。勉強になりました。上手くいっている人のことをよく観察して、そのように行動していると上手くいくと何かの本に書いてあったか、誰かが言っていたような気がする。ただ僻み根性で他者を「くそくそくそ」と思いながら見るのではなくて、観察の対象としての情報源としてみることによって自分の鍋をより豊かにすることができるのだなと、そうなると煮詰まる時間も短縮されて良いかもしれない。

あー、またタイトルと全く関係ないこと書いている。

でも坂口恭平さんも全く違うこと書いてたし、ええか。

こういう都合の良い取り入れ方によって、自分を肯定するというか逃げるという方法も使えるということか。

なんでも自分の思うように、取り方工夫すると言うことか。

最終的に自分の中でまとまって良かった。

大丈夫、きっとうまくいくよ。

これは必ず口にしておきたい言葉。

坂口恭平さんから教えてもらった言葉。

教えてもらったと言っても直接でなくて、ネットワークに接続した結果得られた情報です。そうなるとネットワークに接続しておくことも悪いことばかりではないなと思えますね。

結局どっちやねんということです。