いえるの日記帳

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「まとまらない人」の感想文

 

まとまらない人 坂口恭平が語る坂口恭平

まとまらない人 坂口恭平が語る坂口恭平

  • 作者:坂口 恭平
  • 発売日: 2019/11/18
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 

またまた坂口恭平さんの話です。というか読書感想文です。また読みました。最近はこの人の本しか読んでない。読みやすい本ではないと思うんやけど、なんかスラスラ読んでしまう。おそらく今はわからない。わかるかどうかが問題でもないような感じもする。ほんとにスラスラ考えず読んでいる。坂口恭平さんが横で朗読するような感じがする。たぶんそれは文中にそのように書いているからだと思うんだけど、そんな感じがする。人柄が溢れている。でもそれは他の作品のことであってこの本のことではないかもしれないけど、なんかこの人の書く本。と言ってもまだ4冊しか本は持ってないんだけども、なんかすごい親近感湧くというか身近な人が書いているというか。距離感近いように感じる。平易な言葉ばかりで書いている訳ではないし、坂口さんの言い方で一般的ではないよう語り口なような気がするんやけど、わかったような感じがする。いやわかってはないけど、沁みてくるというのか。最早、分かりたいというのか、坂口さんが書いている世界を共感したくなるというような気持ちになる。それはなんでかわからない。わからないけど、理由の一つにはすごい世界を描こうとしているような感じがするから、その感覚を得たいというのかその感覚を理解できるというか、体感できる様な人間でありたいと思うのかもしれない。坂口さんが描く世界は全くもって僕が今まで思い描いてきたような?感じてきたと言った方がいいかもしれない。感じてきてた世界とは全く別次元の世界が描かれているような気がする。次元が違うというのはまさにこのことなんかな。今まで人と比べた時に努力の差というか、僕が疎かにしたことをやり続けた人が僕よりも秀でているなと。僕の延長上に差を感じていたから、よりひかくをしてしまって、なんで僕はあの人みたいに頑張られへんのやろと感じて落ち込んでいた。どうしても比較してしまっていた。それは著名人であってもそうで。同じ次元で捉えていたから余計にそうなるのかもしれない。でも坂口さんは差はもちろんあるけど、次元が違いすぎて比較の対象にならないというか、なんか異世界に生きている人な感じがするから、比較する訳もないし、悔しくもないし、落ち込みもしない。むしろ坂口さんが書くもの描くもの作るものをもっと知りたいと思うようになってきた。最近はあんまり興味関心が湧くことが少なくなってたところやからちょうど良かった。僕の隙間にちょうど入って来てくれた。風を吹かせてくれている。尊大なところが僕は痛快でいつも笑ってしまう。どうやったらそこまで自分のことをさも過去の偉人と同じ並びに時にはそれを超える存在だと思えるのかと。純粋にすごいなと思う。僕はいつもすごい人を見ると斜に構える。すごいと言えどどこかに落ち度はあるだろうと僕が戦える何かがあるだろうと。そういうところを見てしまう。でも坂口さんは違う。周りからどんな風に揶揄されていようとも、その人にどんな良いところがあるかということを探すのが得意らしい。その時点ですごい。僕と全く違う視点。愛情に溢れている。最早愛しかない。でもそれだけじゃない。愛は基盤にあるんだろうけど、なんか知識というか知力というのかが圧倒的すぎる。どっからでも知識が飛んでくる。その知識も他の人が見る見方と違うからまた面白い。知識を坂口さんの切り口から見て、解釈して教えてくれるから面白い。ある本の1行をみてそこから感じて30行も書けるって言ってた。訳分からん。創造の源泉の湧出量が毎秒何万ℓやねんって言うぐらい湧き出てる。それがまた苦しいのかもしれないけど。湧き出てくる分、それをなんらかの形で具現化すると言うか、「現実世界」に出さないと具合が悪くなっちゃうから。それって凄くしんどいよな。しかもただの雑念じゃなくてなんか凄い言葉が湧き出すんやから、それを身体の中に留めておいたら頭おかしくなるやろな自分やったらと思う。僕の身体にそんな言葉が湧き出す訳ないけど、もし仮に湧いたらすぐに頭いかれると思う。ただでさえ弱いのに。坂口さんは凄く強い。鬱になるということは弱さがあるようにも思うけど、膨大な情報というのかイメージというのかがあれほど湧き出すなら精神が安定しないのもうなづける。目まぐるし過ぎると思う。身体への負担は計り知れない。それが体質だというんだから辛い。何かの方法論で簡単に対処できるようなものでも無さそう。定型のものではどうしようもない。だから試行錯誤しているんだと思う。精神が病んでなくても本来人は試行錯誤するもんだけど、それが出来なくなるから精神が病むのかな。思考が停止してしまうんかな。精神が病む人は千差万別だとは思うけど、似たような部分があるのかもしれないな。坂口さんの場合は表現者として社会から認知されているから、少々言動や行動が理解の範疇越えたとしても「あの人ぶっ飛んでんな」っていう褒め言葉とともに許容されるけど、一般の名も知れてない人が似たような振る舞いをした途端「あの人ヤバい」と後ろ指差されるんじゃないかな。そこが辛いよね。僕もたぶんそういう風に見てしまう。何を言うかより誰が言うかというところにどうしても着目してしまいがち。それやっちゃうと結局は力のある人であったり、有名な人方ばかりが良いこと言ってるみたいな錯覚に陥ってしまうもんな。それだと生きにくい世界になるんだろうなと思う。有名な人と無名な人に分断される。だからメディアやネットとかで印象操作されやすくなるんだろうなと思う。わかりやすいというのは怖い面もあるなと。わかりにくいってことも時には必要なんじゃないかなと思う。どちらか一方に偏りがあるとやっぱり歪になってくる。均整が取れているというのかバランスが良いというのかそういう環境というのは良い面も悪い面もあるし、それ以外の面もある。色んな部分があって成り立っている。そこを無視しては行けないなと思う。それはデジタルな世界からではわかりにくい。ノイズを一切排除しているから。効率重視。美しいことが是とされている世界。自然はそうではない。晴れもあれば雨もあるし、それ以外もある。良い面ばかりではない。だから自然と日々触れ合うことが大事でないかなと思う。様々な面が本来はあるということが認識出来るだけでも少しは気持ちが楽になるんじゃないかなと思う。僕も畑しだしてからちょっとは感じられるようになって来たかなと思う。

大丈夫きっとうまくいくよ。と坂口恭平さんが良く言ってます。

僕もまた同じようにその言葉を最近使うようになっています。まだ自分にだけやけど。その言葉が信用出来るようになったら、他の人にも言ってあげようと思います。