いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

いつまでも言ってること同じ

朝が爽やかになっている。

ギラギラしていないような気がする。

多分この時間だけだと思うけど、そんな感じ。

夕方もそうなってきているような気がする。

明日から8月ではあるけど、来週には二十四節気で言うところの立秋

いつもコーヒー豆を買う焙煎屋さんで季節のコーヒーっていうのを販売してて、

それを買うようになってから二十四節気を意識するようになった。

今は大暑の期間で暑い。

現代の季節でもばっちり表現できている。

昔作られたものでも、今の時代にも当てはまることはあるのだと感じた。

ほんまに昔の人の感覚ってすごいなと思う。

観察眼が違うのかな。

現代よりも感覚を研ぎ澄まして生きていたのだろうと思う。

でないと死ぬからだと思うけど。

今は季節に敏感でなくても死なない。

敏感でない人でも生きられるように設計されている。

それはそれですごいことで生きる確率は昔より高まっている

少産少死なんかな。

文明が発展していると言うことなのかもしれない。

様々な背景にある人たちが長生きできるのはいい時代なのかな。

太古の時代には助からなかったような人も助かる時代。

有難いことだとは思う。

僕が高校生の時、野球をやっていて右肩の故障をした。

太古の時代に野球はないけど、野球が始まった時代では医療の進歩もなく、故障=引退止む無しだったと思う。

でも僕は幸いにも医療の恩恵を受けて、故障後も手術によりプレーを継続出来、高校最後の試合にも出場することが出来た。

今の時代に生まれて良かったと思う。

 

まあそんなことはどうでもよい。

僕は人の文章をあまり読まない。

人のブログを読むことはまあほとんどない。

一時は読んでいた時期もあってけど、書くようになって読むのを止めた。

なんでかよくわからないけど読まない。

たぶん自分より上手な人が多いとなるとやる気がなくなるかもしれない。

他人と比較するようになるから。

でも製本された本なら読める。

本と僕の書いた文章は住む世界が違うから比較しない。

でもブログは相手の書く文章がどれほど上手くあろうが、同じブログということで僕中で比較の対象になるのだろう。

だから読まない。

それなのに今日はちらっと読んでしまった。

読まなければ良かったと思う。

読んだことによってわかったことは僕のような駄文を書く人は世の中にごまんといるということだ。

そりゃ僕の文章が読まれるようなことはないだろうと改めて結論付けられた。

僕よりもたくさん書いてきた人がいる中で、同じような文章が後追いのような形で僕が書いたとて埋もれるに決まっている。

光るようなものがそこにはないからだ。

でもそんなことはどうでも良くて、誰が読んでいようがいまいが問題はない。

だって楽しいからそんなこと一々気にしない。

こどもが砂場で遊んでいる時に他の子がお城を上手に作るからって、自分の遊びを止めることはない。

むしろ他の子が何を作っていようが、自分の遊びに夢中だからどれほど駄作の城ができようが関係ない。ただひたすらに砂遊びを続行するだけの話。

そう僕の文章は子供の砂遊びレベルだと思っている。

そんなお遊びレベルの文章を他人の文章と比較したところで何にもならない。

むしろこの文章に何かを残そうとも思っていない。

インターネット上の塵となって浮遊だけのものだから余計なことは考えないでいい。

考えるだけ無駄と言うものだ。

 

何をしたいかと言うことを考えると。別にこの文章が多くの人の目に触れてほしいなどという意識は全くない。

ないこともないけど、別に誰も見ていないならそれはそれでいいと思う。

むしろいいと捉えた方がいいかもしれない。

人の気持ちを良くするような文章であれば、多く人の目に触れた方がきっといいけど、そんな内容のことは一切書いていない。なら仕方ない。

誰の目に留まらなくても問題はない。

楽しいから続くと昨日も書いたけど、ただただ楽しいのだ。

砂遊びでどれほど良いものができても所詮は砂。

すぐに崩れてします。

そんな傑作書いたことないけども。

 

こうやって日々の悶々を言葉にして頭の外に放り投げるだけの文章。

誰のためにもなっていない。

 

誰のためにもなっていないと言うことで言うと、僕の人生もそうではないかとふと思う時がある。

こんなことを思うのは「うつ」かもしれませんよって、Twitterでだれかが呟いていた。

え?そうなの?それってやばいことなの?

でもそんなこと思っている人世の中に一杯いると思うけど。

うつの要素の一つとして書かれていたけど、そんなものが要件の一つにあるとはうつの診断と言うのはちょっと怖いなと思った。

消極的な言葉はこの世に必要ないと言うことなのかな。

消極的な言葉が無いと積極的な言葉が無くなる訳で。

余計に生きにくくなると思うけどな。

消極的な言葉ある意味で世の中に余白というのか、空間、逃げ道を作り出していると思う。

それを排除してしまっては、世の中の大半の人は死ぬしかない。

そもそもネット上にある、消極的な発言ってごく一部しかないと思っているから、世の中にはもっと多くの消極的な発言が溢れている。

それを是正するなどできないし、排除もできない。

排除したら死ぬ。しらんけど。

 

そろそろ熱くなってきたから終わる。

 

大丈夫、きっと上手くいくよ。