いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

久しぶりの早起き、することもなく文章を書く。

今日はあまりにも早く起き過ぎたので、することがなく早朝からパソコンを開いてみた。

そう言えばブログを暫く書いていないなと思ってはてなブログのページを開く。

最後に記事を書いたのが、約2か月も前になっている。

そんなにもこの間に書くことがなかったのかと思い返してみる。

でもそんなこともなくて、結構充実していたと思う。

充実していると書かないのかもしれない。

前にも書いたけど、脳みその容量がオーバーになると書くのであって、そうでなければ比較的に平穏に暮らし、書こうという気にならないらしい。

その程度の文章に対しての熱量であるので、毎日書くというのは難しいらしい。

スゲー書きたい。と思っていたのは数年前。

あの時から比べると生活の充実度がやばい。

というよりも現状の生活に満足しているのかもしれない。

生活に満足するとそれ以上の生活を訴求することが無くなるから、逆に何もしなくなるのかもしれない。

ある種ブログを書くという行為は余白を与えないようにするための隙間を埋める行動なのかもしれないと思い始めている。

ということはこれからは書く頻度は圧倒的に減る可能性が高い。

と言っても今日書いているということは満足度とはあまり関係のないということを力説している可能性もある。

正直言って気分屋である自分がいつも同じ感情や同じ行動をするのは難しく、その時々の流れに乗ってやりたいことをやっているというのが実際な訳で、あまりこうだと決めつけすぎるのは自分の可能性を潰すことになるから止めておこうと思っていたのについつい社会性という謎の概念が時々出てくるのが怖いところ。

これは誰しもあるかもしれない。

自分の思うまま、特性のままに生きればいいのに、ふとなぜかその行動に対して疑問を抱くことがある。

その症状に何か名前があればいいのにと思う。

一回書いたかもしれないけど、何かで太宰治の作品かなんかで、「トカトントン」という短編があり。何かに熱中していても突然頭の中でトカトントンと鳴ると急に目の前の熱中していることから冷めてしまうというやつ。この文章を読んだときにまさにこれだと思ったのを思い出した。

だから、突然何の気になしに疑問をもつ症状を「トカトントン」と名付けることにしよう。

トカトントンは僕にはよく起こる。

それがなぜなのかはわからない。社会性という名の過去に押し付けられた概念かもしれないし、ただただ飽き性なのかもしれない。ただその瞬間に起こるのは「これをしたとて」という何とも言えない感情。虚しさというのかなんなのか。

その感情が湧いた時に「お前はもう死んでいる」ばりに感情が死んでいるというか、興味が死んでいる状態になる。

それでも30余年生きてきて、自分なりに少しずつ対処法も学んで来てはいるつもりで、おそらく過熱した時にその症状は出やすいのだと思う。

人によるかもしれないけど、何かに熱くなるというのは永遠に温度が上昇し続けるというのは無理で、上昇し続けた熱はいつかどこかで雲散霧消となる。

水が沸騰して、それ以上加熱した時に蒸気になって消えてしまうように、熱した気持ちも沸騰して、さらに加熱すると消えてしまうらしい。

だから急速に物事にのめり込むというのは、トカトントンのフラグがすでにそこで立ってしまっているとも言える。

とりあえず今わかっている唯一僕が分かっているトカトントン対処法は過熱を避けるということ。

そうすればある程度のところで、熱を保つことができその行為を長く続けることができる。

これが分かってないうちはやればやるほどどんどん好きになるのだと思っていたし、やればやるほど色々なものが見えてくるんだと勘違いしていた。

実際にはそうではなく、やればやるほど自分の限界やその対象の限界が勝手に見えるような気がして、「これをやったとて」という虚無感というのか絶望というのかが押し寄せてくる。

瞬間最大風速を出せるというのはある種の才能かもしれないが、それが燃え尽き症候群のような「トカトントン」を生み出してしまうのだと今のところ自分の中では結論付けている。

今改めて振り返って見ると人の感情というのは水の性質と似ているのかもしれない。

熱しすぎると蒸発するし、冷めきってしまうと固まるし、放っておくと自然と無くなっている。

感情や気持ちを水と例えると色々と納得いくことがある。

水は周囲の環境によって温かく感じる時もあれば冷たく感じることもある。

心も同じで環境の環境によっていかようにも変化する。

水は温度が違えば形状も異なるし、心にも形はない。

そうかこれは大発見かもしれない。

心は水か。

すごく面白い。

そう考えると心が変化するのは当たり前やし、急激に変化するのもわかる。

これは何かに使える。

いや使えない。

誰かにこのことを離すことって基本的にないから、ここで完結。

こういう話をどこかでするともっと自分が拡張できるのかもしれないけど、まあそれは今はいいかなと思っている。

この場で楽しめたら満足してしまう。

それが良いのかどうなのか。

今日はたまたま早く起きたから、書いたけどまた書くかどうかはわからない。

 

今日ほんとは一昨日に勉強した睡眠について書こうと思っていた。

ZOOMでのセミナーがあって、その内容が今まで勉強したこととちょっと違った視点での話で面白かった。

睡眠というものに焦点を当てるのはもちろん、睡眠そのものに対しての考え方が少し変わるような内容だった。

簡単に言うと自分に必要な睡眠が理解できているかということ。

ただ深い眠りだとか快適な眠りだとかということ自体も大事だけど、なぜ寝るのか、なぜ〇時間寝ないといけないのか、そもそも一般的に言われている睡眠時間というのはあなたにとって当てはまるのか。

睡眠と十把一絡げに言うが、世の中的に言われていることを鵜呑みにして、言われるままに寝てませんかと。

もっと主体的に捉えてどう眠ると自分に問って最適な眠りになるのかというのをもう一度考え直してみましょう。みたいな内容だったような気がする。

もっかい動画見直して整理して、自分なりの文章にまとめようと思っている。

この週末に。

なのでまたお目見えるする機会もあるかもしれないので、その時はまた宜しくお願い致します。

 

大丈夫きっと上手くいくよ。でいつも締めてたけど今日から変えようかな。恭平さんが教えてくれた言葉やけどちょっとカッコよすぎるから。

それよりももっと相応しい言葉あるのではと考えて、

大丈夫、なんとかなる。に変えようと思う。

上手くいくかよりも何とかなる方が自分の場合には良いような気がするから。

 

大丈夫、なんとなかる。

うん、なんかしっくりくる。