いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

書けるのは書けるでもまだ体力がそこまで。

なんか書こうと思ってたけど忘れた。

こうやって言うといつもネタ考えているように思われるかな。

事実と違うこと書いてもこのブログの事を注目している人はいないから、別にいいよな。

そうやって嘘は広がっていくのかもしれない。知らんけど。

と言うか事実かどうかなんてどうでもいいし、ネットに書いてあることがウソであってもそれは仕方がないように思う。なんとなく。

人によってはそうでないかもしれないけど、ネットにあることは非現実にあることだと思っているから、まあそんなもんと思っていたらいいのではないかと感じる。そこまでネットの内容に熱くならなくてもいいのではないか。

自分の周りに起こっていることに注目しているとそれどころではない。暇だからネットの情報につかまるし、騙されるのではないか。別に自己責任がどうとか言いたい訳ではなくて、単純に暇なんだろうなと思うだけ。他人のことにそこまで注意を払うことはできないなと思っただけ。そんな僕も他人の事ここで揶揄していると言うことは暇なのです。

必死に生きていない=暇。と言う訳ではないけど、そうと言われても仕方がないかもしれない。日々に命をかけている訳ではないから。必死になってやっていることは今の僕にはないかもしれない。生活が継続できるようにするために仕事をやっているし、それ以上のことを仕事に求めていない。仕事にやりがいを求めている訳ではない。仕事にやりがいも止めてしまうと出来なくなった時、定年を迎えた時に絶望しかないと思うから。仕事人間と言えば聞こえはいいが、そんな時代でもないのかなと思っている。生きがいと言う言葉もどうなのかなと思っている。ただ生きて行くと言うのがそんなに尊くない、蔑んでみられるのものなのかと思っている。それっておかしくない?人間だけが人生の目的は?とか将来はどうするの?とか聞かれるし、それがないとなるとこの先どうすんの?と聞かれ、心配される。これが大事だなと思っていた時も僕にはもちろんあったので、あんまり強くは言えないし。もしかしたら人間が大人になっていく上での通過儀礼なのかもしれない。でもそんな言葉早く世界から消えてしまえばいいのにと思う。目的があるから、なんかおかしくなっているんじゃないかな。目的なんかなくたっていいと思う。自然の中でただ生活を続けて行く。それで十分だと思うけど。多様性と言うならばそういう存在も認めてほしいと思う。発展を望む人ばかりでないと言うことを分かって欲しい。

まあ結構長々と書いたけど、この文章にそれほどの思い入れはない。なんとなく思ったからそう書いただけで、明日になったら忘れている可能性がある。僕と言う人間はそういう性質をしているので、一瞬熱くなるけど、一瞬で忘れる。それでも覚えていることがあるとするなら、それは僕の人生の中で大事なものなのだと思っている。

意識しなくても忘れないことが、人生の中で大事だと思っている。

呼吸、食事、睡眠。

あと、排泄か。

身体を動かすことも大事やな。いや、身体だけでなく心も動かした方がいい。

本当に大事なのはこれだけ。

これ以上に大事なものはないと思っている。

でも普段これらのことはないがしろにされている。

なんでかな当たり前だから?いやそんなことはない。

他の事ばっかり気にし過ぎているからだと思っている

皆思考に耽りすぎなんだと思う。オナニーが大好きなんだと思う。そこに囚われ過ぎてどうにもなってない。しらんけど。というかみんなってだれ?そもそも人間い興味ないのに何説教じみたことしてんの?と思って一気に覚めました。

完全に引きました。僕はこう言う奴のことすごい嫌いなのに自分でいきなり、嫌いなやつの行動を取ってしまった。すごく反省しています。すみません。反省します。

人って隙を見せると直ぐに勘違いすると言うか、なんか世を正すみたいなことしたくなりますよね。

お前何様?自分のことも自分で処理できんくせに、人に偉そうにするなと自分に言ってやりました。

今ここで僕がやっていることは人に説教することではなくて、ただひたすらに文字を書くと言うことだけだから、誰に対してもメッセージを飛ばしてません。

油断するとすぐに忘れます。中々悪い癖です。

人に説教を出来るのはいったい誰なのでしょうか?そもそもそんな人間が存在するのかと思います。説教できるのは釈迦か神様かどちらかだけではないでしょうか?だから現在生きている人類の中で他人に説教を垂れることが出来る存在はいないということです。そこを弁える必要があると自分厳しく言っておきます。本当にすみませんでした。

こんな文字の羅列の文章で説教が出来るとも思っていません。説教できるのは日の打ち所の内観全体の人間しかできません。代弁なんかもしないでください。その言葉はあなたと言うフィルターを通した時点ですでに違う言葉になっています。文字として残っていたとしても、あなたというフィルターを通った時点でもうすでに次元の違う言葉になっています。代弁するぐらいなら、あなたの言葉で語ってください。その方がよっぽど説得力があるのではないでしょうか?自分を偽らないでください。一体となることはできない。あなたはあなたで、彼方ではない。

え?急に何の話し?

落ち着いてください。大丈夫です。今日は土日祝なので、際限なく書いても良い日なんです。許される日なんです。なので好き勝手本当に好き勝手に書いています。

なにも考えていません。

思いつくことを書いているだけです。

そう言えば昔熱中して、自分の頭で考えると言うことをやっていました。

それが凄く尊いものだと信じていたので、これはすごい発想だと思って憑りつかれていました。

本を何度も読んで、これは自分の考えかどうか。その度に自分を卑下していました。また人の考えをパクってしまったと。どうして人の言葉ばかりをパクってしまうのかと嘆き苦しみました。自分の頭で考えられない自分に絶望していました。どうやったら自分の頭で考えらえるクリエイティブでエグゼクティブなビジネスパーソンになれるのかと。結局そんなものは虚像であることが良く分かりました。オリジナルなんてないんだから、人の考えをパクって何が悪いのかと開き直りました。

そもそも僕の仕事はクリエイティブな要素はなく、エグゼクティブになれるような仕事でもありませんでした。その辺が分かっていないことが一番の原因だなと後々気づきました。突飛な発想など必要なかったのです。そして視点だけではないと言うことにも気づきました。物事を捉えるにあたって、視点もあれば、視野もあるし、視座もあると。だからそんなに難しく考える必要もないんだと言うことにして、自分の頭で考えると言うことを深く考えなくなりました。そうすると楽になりました。と言うよりもそんなに色々と考えられるほどの努力もしてないし、脳みその能力も大したことないと思えるようになると大抵のことをそうだねと言えるようになりました。結果それでよかったなと。それぐらいで十分生きて生きると言うことが分かると後は楽。

好きなことで時間を埋めなくても生きて行けるし、好きなことで時間を埋めると最高だと言うだけの話で、最高と最低があるのではなくて、最高とそこそこ良いがアルだなんだと思えるようになりました。

 

この辺で手が疲れてきたような気がするけど、もう少し書きたいから書く。手の配置って結構大事ですね。未だに文字を打つ時のベストポジションが分からない。まだまだ試行錯誤しています。これだけ毎日書いていても書くためだけのベストポジションすら見使ていないのだから、人生における自分のべスポジなんてすぐに見つかるはずがないとどうして思えないのかなと今は思える。でもすぐにそんなことは忘れてしまう。自分に都合の悪いことは忘れらるようになっているのだから、すぐに忘れてしまうに決まっている。そういうものなんだ。仕方ない。だって人間だもの。いや何の話。

ABCラジオで毎週月曜から木曜午後15時から裏の裏まで浦川ですと言う番組の木曜日のコーナーで「だって人間だもの」というやつがあってそれが好き。いや何の話。

これぐらいラフでいいのではないかと思っているけど、他人が自分に対してこれをやると結構いらつくんですよね。

自分の話題で事が進んでいるのに、急に相手が話の途中で全然違う話を物故んで来ると言う奴。所謂話の腰を折ると言うやつ。あれ嫌い。でも今僕はそれをやっている。

しかも自ら、進んで自分に対してやっている。

自分で自分に対して自分の話に対して、腰を折ると以外にも気持ちがいい。

何にも思わない。

人間ってそんなもんなんですね。人にされると嫌でも自分がやった時はそうも思わない。勝手なやつですよ本当にでもそこがいい。そうなんです。勝手なところが人間らしさなのかもしれない。目的を持ったり、生きがいを持っていること、思考できることが人間ではなくて、勝手なところが人間なんだと思う。そうやって思うと変なことやっても、打って人間だもの。所詮業の深い生命体なんだと言うことで一件落着なんですよね。ほっといたらいい。どんなことを言われてもそんなもんと言ったらいい。

いやいやでも現実ではそうはいきませんよ。現実はどうやってもしつこく追いかけてきますから、現実からは逃れられませんよと現実は言ってくるのですから。坂口恭平さんの現実脱出論とかにもそんなこと書いてあったかもしれない。最後まで多分読んでないから、どんなこと書いているか正確には言えないけど。現実と言うやつはもっともらしいことを言ってくるけど、それに騙されてはいけない。それだけが全てではないみたいなことを言っていたような気がする。たぶん現実=常識かな。世の中の人がそう言ってたとしても果たしてそうなのかと疑ってみるというか。聞いているふりをして、内心では本当にそんなことあるのかよと思ってみる。常識と自分は一線を画すというのか、当たり前にありふれていることを一度違ったところから見てみると言うことかな。

ただひねくれているのではなくて、違ったところから見ると言うのが大事なんだと思う。そうすることで発見がある。

毎日ちょっとずつ違った見方をすることで、発見できるならそれほど楽しいことはない。同じ毎日だと思っても全然違う。昨日とつなっがいないかもしれないし、明日ともつながっていないかもしれない。

良く分からないところで満足したので今日はこの辺にしておこう。

 

大丈夫、きっと上手くいくよ。