いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

何も書くことが無くても書く

今のところ毎日書いている。特に書くことが内容に思えても書くことが出てくる。

脳ミソと言うのは勝手に色々と生産してくるらしい。

余計なことまで生産してくる。生産と言うか遺産を残すと言うことの方が正しいか。

それを時々僕にこんなのが遺産としてあるよと、見せてくる。

もちろん見せてくるのは、あまり見たくないものばかり。

負の遺産がしっかりと脳ミソにこびりついて残っている。

特に楽しい思い出と言うのは脳ミソは処理してしまうらしい。僕の場合。

人によってその辺は違うんだろうなと思う。良い思い出ばかりが遺産として残されている人は羨ましいなと思う。

それでもここで放出することによってだいぶ負の遺産も減ってきている。

まだ残っているものは本当に嫌なものというか、人には話せないようなものだけ。

それをどうやって処理していけばいいのか難しい。人には話せないのだから、ここで書ける訳もなく、蓄積し続けている。

こういうどうしようもないものをファンタジーとして昇華させることができれば僕も作家として名乗れるような気がするけど、まだ実際の期待無いものをファンタジー化できるほどの文章力はない。そこはまだ苦しいところ。このせいでまだ糞詰まりとなり苦しんでいるのかもしれない。どうでもいいことと言えばどうでもいいのかもしれないけど、誰しも人には話せない過去ってあると思う。

むしろない人がいたら羨ましい。そんなクリーンな人生最高じゃないですか。

後ろめたいことがないなんて、そんな聖人君子にあってみたい。もしいるなら話をしてみたい。でも聖人君子でもないか、汚い部分を全部さらけ出してネタにしてしまう人もいるもんな。そこに笑いが生まれたらいいわみたいな人。それが芸人か自分の人生を切り売りしてネタにして笑いを取る。生活かかったらそんなことも平気でできるようになるのかな。その次元はまだまだほど遠いなと思う。

今の僕がここに書ける内容はそこまで深いものではないかもしれない。深層心理まで掘り下げるということはできていない。というかそんなもの存在しない訳だし。

今書いていることはその場で生まれた雑念のようなもの。座禅をしている時に時折浮かんでくるなぞの思考みたいなもの。その時にそんなの考える?みたいなやつ。

そこに執着することなく、手放し続ける練習。そこに心も体も費やさない練習。

それがこの場で僕がやっていること。座禅的な発想で書いているのかな。

そんなこと言ったらすごく怒られそうな気がするけど、まあそういう感じ。

ひたすら思い浮かんだ言葉を書いて、手放して。それを繰り返すだけ。

坐禅は只管打坐というけど僕の場合は只管打鍵。ただただキーボードを叩くだけ。

それだけのことで大したことは全くやっていない。

唯一設けている制限は文字数だけ。これを毎日やるだけ。

そこで何か変化が出ればいいし、でなければそれはそれで別になんてことはない。

この行為自体に特に何も意味はない。意味を求めてやるものでもない。

意味がないからこそ面白いのかもしれない。

というか意味がないことを必死になってというか、やり続けることが面白いのかもしれない。でもそれは外から見ても別に何の面白さもない。

ただやっている本人が楽しいだけ。文字を打つということに興じるという、ちょっと頭のおかしい作業かもしれない。

でもそれで平穏が得られるならそれでいいのではないかなと思う。

文字を打つことでくつろぐことができるならそれでいいのではないかな。

日々の中でいかにくつろぐ時間を持てるか。くつろぐ時間が多ければ多いほど日常は充実してくるのではないかなと思う。

日常を充実させるのはあくせく忙しく働くことではなく、くつろぐことができてこそ充実するのではないかと思う。

何かを成すことで得られるものというのはその瞬間、最大風速的に起きるものであってそこに執着するとしんどくなるし、窮屈になる。

そんな生活から僕は離れたいと思っている。何かを成すことが全てではないと言う大義名分の下盛大に成果主義からは逃避したいと思っている。逆に何も成そうとしないとあえて行動するぐらいに振り切って行きたい。まあこんな消極的な行動が振り切ると言えるのかどうか怪しいけど。まあそんな感じ。

 

大丈夫、きっとうまくいくよ。