僕は野球をやっていた時打順は7番か8番が好きだった。期待されないからだ。打てなくてもさほど言わることもないのに、打ったら結構褒められる。
それにこの打順ではチームの事情かおこぼれをもらえることが多く、チャンスが多く回ってきたから打点をあげる機会が多くて美味しい打順だった。
まあ打つとまた上位に上がるので結局は嫌なんだけど。
元々がそんな性格で周りから期待されるのは苦手だった。意外性の選手と思われる方が良かった。普通だとそんな言われ方カッコ悪いから嫌だと思うけど、僕はそれが良かった。
期待されるとどうしても身体が硬くなって、必要以上に良く見せようと思ってしまう。そうなると空回りするし、ちょっと上手くいくだけではあんまり周りも評価してくれない。
そんことが続くと普段何とも思わない僕でも、だんだんとあれ?僕はダメなのか?と猜疑心が湧いてくる。そして卑下し始める。
周囲からの期待が伝わってくると、自分自身も期待するようになってくる。
あれは良くない。それに他人に期待するとはどういうことだと思う訳ですよ。
他人に期待せずに自分のことやってくれたら、それで回るのに人任せにして期待してんじゃねえよと思う訳です。
もちろん周囲の期待が悪いわけでもないし、有難くないと思っている訳でもなく、もちろん嬉しさもあるんですよ。だってこんな僕に期待してくれているんだから、それはすごく光栄なことじゃないですか。
でもそれってすごくハードルが上がるので普通のことやっても大して評価されないので、それだったら最初から期待されていない方が得だなと僕は思ってしまうんですよ。
自信がそもそもないから。自信がある人ならその辺乗り越えられるのかもしれないけど、僕みたいなひょろい人間は簡単に心が折れるんですよ。ポキっと。
いやそんなことないか。別に心は折れたことないかも。まえっかでその場をやり過ごして、また別の方向に向かってる。そうだった忘れていた。
いつの間にか自分がすごく神経質であるという幻想に抱かれていたけど、実はそうでもない。なぜかそんな自分を否定していたかもしれません。
そんな神経質ではない。そういう人間であった方がいいように思っていたからそう思い込んでいたのかも。
神経質って言い方を変えれば繊細で、機微があり、美しいような風にも僕の中でのイメージではあったから、それを演じたかったのかもしれない。
そういうのじゃないのよ。そこじゃないのよ。気にするのは。
僕は勘違いをしていました。大ばか者です。ただただ演じていただけです。
演じることも時には大事かもしれないけど、脳裏に染み付いてしまうとそれが演じているのか現実かわからなくなってしまうので注意が必要ですね。怖い怖い。やっぱり簡単に脳というのは騙されるのですね。というか騙してくるのですね。
そうやって脳は僕のことを笑っているのだと思います。またこいつ勘違いしてやがると。
脳に支配され過ぎては、上手くいくものも上手く行かないので、いつも気づいて意識している必要があります。
これは僕の判断かそれとも脳の判断なのかと。
僕と違って脳は期待されるのが好きなようです。周りから気にかけてもらうことも好きなようです。
ですが、僕はそこは求めていません。
僕の身体の一部なので脳と喧嘩するつもりはありませんが、違うところは違うと意見を伝えて、建設的に物事を進めていく必要があります。
脳と上手くやり取りが出来ればもっと生活は楽になると思うので、まずは脳が求めてくるところの期待というものは諸刃の剣、いや麻薬であると説明しないといけないなと感じています。
期待は必ず快感を生むわけではなく、絶望も生まれると。麻薬で気持ちいい時は一瞬でその後に転落や絶望があるのと同じであると。しらんけど。
期待することが無ければ絶望も無いわけで。
それに期待がないからと言って人生灰色ではない。
むしろ期待が無い方がどんなことにも喜びを感じられる。
そっちの方が楽で楽しいんじゃないかなと思う。
だから脳には期待をするんじゃないよと。伝えておく。
ただただ結果を待つだけにしてください。
そうすればどんな結果でも受け入れることができるから。
そっちの方が楽じゃないですかと。
大丈夫、きっとうまくいくよ。