ちょっと言い過ぎ感あるけど、
坐禅への興味がまた沸々と盛り上がりつつあるということですね。
以前興味が湧いたのは岩手にいた時でした。
アレクサンダーテクニークのセッションを受けるために仙台まで行ってました。
岩手きっかけで一ノ関から曹洞宗のお坊さんもそこに通っているという話が出て、
曹洞宗の話流れから藤田一照さんという面白いお坊さんがいると言う話になりまして、
その時は、へーっと思ったぐらいでした。
その後に、東京でその界隈の人たちが集まるというイベントがあり参加しました。
そのイベントの登壇者として藤田一照さんがいらっしゃったので、
話を聞いたり、ワークショップに参加したのがきっかけです。
僧侶であるにもかかわらず?ざっくばらんに話をされていたのが印象的でした。
堅苦しくなく、面白い話をされる方でした。
話の中で特に印象的だったのは、僕は自分の掌を探すことやっているというような内容の話です。
僕なりの解釈では、それぞれ別個の事でも色々探っていくと根っこの部分に辿り着く、正体的なところに辿り着けるということでしょうか。しらんけど。
適切に理解した訳ではないと思うのですが、そんな感じの話をしている一照さんに興味が湧き、そんな話をする人が取り組まれている座禅とは一体どんなものなんだろうという興味も同時に湧きました。
それでそのイベント会場で売られていた「現代坐禅講義――只管打坐への道」というめちゃくちゃ堅苦しい名前の本を手に取りました。
さっきの話の感じとちゃうやんと思いつつも手に取りました。
その中で衝撃の一言が書いてありました。
澤木興道と言う方の言葉なんですが、
「座禅してもなんにもならん!」という言葉です。
いやいやと思ったとともに、最高に気持ち良かったです。
人生に特別意味を求めるなよというようなことなんかなと感じました。
特別に意味や目的を求めるような生き方をするから辛くなるし、しんどくなる。
人間以外の動物はそんな欲求などないから、悩みがないのかなって。
その当時すごく得心したような気がしましたが、数年経った今坐禅はしていません。
なんじゃそれって話ですが、坐禅と言うのはくつろぐことだそうなので、
落ち着きなく、くつろげていなかったのかもしれません。
僕は不安や迷いがあると、楽になる方法はないかと調べ、やってみようとします。
でもそういうのって大体続かない。
そこで続かないとまた不安や迷いが生まれます。
延々と同じことやっています。
坐禅のようにすべてを手放して、ただ座っているだけというのは逆に難しいです。
在家のままでやっても意味ないような気もしたりで。
でも最近またこの本を手に取り、やってみようかなという気になっています。
心境の変化かな。とりあえずちょびちょび読み直すことから始めています。
大丈夫、きっとうまくいくよ。