いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

健やかな身体のイメージ

今日は10月10日、小さい頃だったら体育の日でした。体育の日ってだけで小さい時はすごくテンション上がってたような気がする。なんせ落ち着きのない子供でしたから、

動き回るのがすごく好きでした。そうです。僕は動き回るのが好きなんですよ。じっとしているなんて性に合わないんですよ。なぜそれをもっと早く言わないのか。それをもっと早く行ってればこんなに苦しまずに済んだんじゃないかと思うんです。

でもそんなことを言っても何も始まりませんので、そこはそっとしておきましょう。なんたって怒りは自らの心を燃やすものだと教わりましたから。確か、ゴエンカ師の法話の中で聞いたんじゃないかな。あんまり正確ではないけど。ゴエンカ師というのは、ヴィパッサナー瞑想の教えを広めている人なのかな。今は存命ではないと思うけど。そうなんです。僕はヴィパッサナー瞑想を受けるために瞑想センターに生きました。あれは、僕がまさに人生を瞑想している時、20代最後の年だったんじゃないでしょうか。その年はほんとに僕は多くの経験をしました。ワーホリ申請のちょっとしたミスから始まり。いやミスというかちょっと間違ってますよって係の人も親切に教えてくれれば良かったのに。まあそれは僕がいつもよくやるやつです。何かと細かいミスを連発する見切り発車専門の列車なのです。

見切り発車なのものだから、ワーホリでの滞在先も熟慮せずいいよと言ってくれた人にとりあえず一定期間いさせてくださいみたいな適当なやり取りで連絡してると。申請のまずさによる認可の遅れで、日本を発つのが送れて、ホストの連絡するとそれはちょっと難しなという話になって。滞在先が白紙。白紙のまま出発と言う謎のスタートを切りました。これはまた別の時に話しましょう。そして白紙になったならなんでもいいやとなって、とりあえず巡礼の旅に出ました。それはそれは最高のものになって、言って良かった。ミスがあっても終わり良ければ全てよしみたいな。そんな感じになってました。もっと滞在期間が会ったのですが、友達の結婚式と言う重要な任務があったということを理由に早く帰りたくなっていたので、僕は滞在期間4カ月弱程度でワーホリから早々に帰国しました。帰国して友達の結婚式には出たのですが、無職だったので毎日することがなくて、そうだせっかくだし瞑想センターに行こう!となって瞑想に行ったという訳なんです。この瞑想の流儀というかこだわりとしては、ピクリとも身体を動かさないということだったんです。身体を動かさないことによって、身体の感覚を研ぎますというようなものでした。瞑想をそこまで真剣に取り組んだことがなかった僕にとっては、そうかこれが瞑想というものかとバカになって真面目に取り組んでおりました。でも感覚を研ぎ澄まそうと思って、頭の中ですごく騒いでおられるんです。そう僕が動き回ているんです。それはどうしようもなくて、そのことを講師っぽい女性の方に相談するのですが、それはやめましょうというシンプルかつお前に任せるスタイルだったので、これを2週間のうちに克服すると言ことは僕にはできませんでした。瞑想以外の時間もあまり積極的に身体を動かすことは禁じられており、私語は厳禁。これは別になんてことなかったです。普段からあまり会話しませんから、2週間喋らないぐらい屁でもなかったです。というかありがたかった。知らない人しかいなかったから、むしろ会話が自由だと人と話をしない僕は孤独感を感じてたことだから、良かったと思います。

私語だけではなく、他者と目を合わせることも禁じられておりました。より深く自己を洞察するためにそういった日常で行われる行為は全て禁止だということだったのでしょうか。俗世の垢を落とすということだったのかもしれませんね。それに食事はビーガンというのかベジタリアンというのか、こういった食事に興味が無いから正確な呼び方はわかりませんが、そんな感じの食事でした。味は美味しくてバクバク食べていたのですが、後半数日になってからは固形物の食事は確か無くなったような気がします。食事回数も減って、水分だけだったんじゃないかな。この辺は結構記憶があいまい。そんな禁欲生活を強いられており、色んな参加者がいましたが、途中離脱してしまう人がいました。早々に離脱したのは本職ではないかと思われるようなスキンヘッドのお坊さん風若者でした。なんども係の人に話をしていて、たぶん不満と言うかやり方おかしんじゃね?的な話をしてたっぽかったです。まあ自分の流派と違ったんでしょうか。それともただ辛かったんでしょうか?よくわかりませんが、3日ぐらいでいなくなったような。

あと外国の方。僕と同年代ぐらいでしょうか。同室の方でしたが、日中は特に変わった様子はなかったのですが、夜になるともごもごしゃべっているような日が続き、最終的には笑っていました。相当キテたのかもしれません。後日談で他の方々が最終日に話をしているのを横で聞いているとその外国の方には夜になると妖精が見えていたらしく、その姿を見て、話をしたり、笑っていたそうです。よほどのストレスをこの短期間にうけたのだなと幻覚が見えるほどの修行だったそうです。

そんな瞑想センターでの日々でしたが、胡坐を組み、身体は微動だにせず、ただただ呼吸に意識を向けるというものでした。鼻を通る空気を感じるのです。そしてその空気の感じを徐々に広げていき、皮膚の感覚を全身にまで行き渡らせます。そして最終的には身体全体を知覚し、身体に一滴ずつ雫をおとしていき、身体中をその雫でいっぱいに満たしていくみたいなところまでやったような、やらなかったような。微動だにしないというのが、ポイントみたいです。

僕はこの微動だにしないということが非常に苦痛だったようです。なので勝手に言われていることを無視して身体を動かしていました。だってみんな目を閉じているから気づかれないかなと思って。最終日とかその前の日は瞑想の時間にめちゃくちゃ身体を動かしていました。というか身体が勝手に動いていました。完全に身を任せてほっといたら身体が勝手に動いたんですから。それが自然と言うものではないかなとその時感じたのです。

僕にとっての自然は身体をがっちり固めて微動せず、ただただ身体の感覚に目を向けると言うことではなく、自然動く身体に身を任せてただただ動くことではないかなと。そうなんですね。僕の身体の良いイメージって勝手に動くと言うことみたいです。そうなんですね。思いもよらぬ方向から、僕の求めているものが出て来たようです。健やかな体のイメージは勝手に動く。というか動きたいように動かせてあげる。四の五のルールで押さえつけない。子供のように無駄に動き回るというのが僕の健やかな身体のイメージなのかもしれません。

押さえつけると言うことは全く僕の良いイメージとは反するようです。我慢とかありえないということですね。それだと滞ってしまいます。思いつくままに身体を動かして、思いつくままに行動すると僕は健康になるようです。

あまり思いつめず、考えすぎず、言いたいことを言っているのが僕にとってはちょうど良いのかもしれません。

今日も良い勉強になりました。

大丈夫、きっとうまくいくよ。

坂口さん今日もありがとうございました。

僕なりに文章を解釈して、マネして感じで書いてみました。こうやって書くと流れるのでいくらでも文章が書けそうな気がしています。すごく楽しい。

適当に出しまくってますウンチ。誰かのまねをしてこんなんかなって試行錯誤するのが意外と今は楽しくって、嬉しいです。

坂口教現在進行形で入信中です。ちょっと入れ込み過ぎな感じもあるけど、まあハマるけど嵌らないのが僕なので、ちょうどよいかもしれません。