いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

今より少しでも上手くなりたいとは思うけど

文章を書くのもそう、ヨガをやっててもそう、焙煎も、ROKもどれも少しでも上手くなりたいとは思うけど、そこまで必死でもない。

だからどうやったら上手くなるのかとかあんまり調べてない。

文章だったら、書く前に準備して、校正して、良い文章を参考にしてなどなど、やれることはたくさんあるのだろうけど、まあそこまでしなくてもいいかなと思っている。

やりすぎるとどうしても窮屈になるから。

もちろんコツ知ってた方が上手くなりやすいのかもしれないけど、上手くなった先に何か目指すものがあるとかなら、まだしも別にそんなことも考えてないし、今が楽しければそれでいいかなという、享楽的な感じで文章を書いているだけだし、ヨガもその時が楽しければそれでいい。

焙煎は大体美味しいからそこまだ質を求めてない。質を求めれば再現性が高まっていくんだろうということもなんとなく分かっている。

ROKに関しては少し数字を意識したりして、調べたけど、ある程度できる様になったら、それ以上のことは別にいいかなって感じ。

上達への道を目指せばより色濃いものになり、背骨もしっかりしてくるのだろうとは思うけど、別に薄くてもいい、薄っぺらくても自由にできるのであればそれでいいと思っている。

何者かになりたいと思っていた時期はそこ目指してたかもしれないけど、ある日からそれは自分の行き方とは違うと思うようにして、辞めた。

もちろんこれは逃げ口上と言えばそれまでだけど、それでいいと思っている。

逃げて何が悪いのか。

逃げずに歯を食いしばってやっても身体が辛いだけ。

辛いことは自分には合わない。

楽しいことだと続くと分かったから、辛いことは横によけておく。

そう思うとなんでも前以上に気軽に取り組めるようになったから、それでいいのではないかと思っている。

文章はいつまでもこんな感じでフラフラしながら進むけど、読む人は読んでもらえたらとも思っている。

まあ読まれなくても書くのは変わらないけど。

 

大丈夫きっと上手くいくよ。

急速沸騰、急速冷却する心の内をコントロールしたい

また書くことをゆっくりと再会しようと思う。

いつも書きたいと思ったら瞬間最高風速的に、ガーッと一気にやって、すぐに止める。

そんなことを繰り返している。

まあそれも自分らしいと言えば自分らしいのかもしれない。

適正なやり方でやれば大概のものは続くというのに、僕の場合はそれはないみたい。

僕の適正なやり方というのが、ガーッとやって、一瞬で冷める。

だから継続するということが不可能に近い。

あんなに熱を上げていたヨガもクラスが終わった途端に冷静になっている。

全くやらない訳ではなく、ちょこちょこ続けてはいるけど、一時期の熱は冷めている。

これまでひたすらにそれを繰り返している。

当然のこと過ぎて、一つ一つのエピソードを全く覚えてないほど習慣化されている。

こういう人は世のかにもっといるはずで、僕だけが特別な訳ないと思っている。

それでも今のところ全く同意見ですという方にまだお会いしたことがない。

僕みたいな性分というのは、本来恥ずかしいことであり、大っぴらにすることではないのかな。

そうだとするとこうやって書くこと自体が実は恥晒しであり、僕は周囲の人間からしたら露出狂であると認識されている可能性がある。

ただここはほぼクローズな環境であり、誰も僕に意見をすることがない。

言わば、密室の状態で監視カメラは撮影をし続けているが、その映像を誰も見ていない状態で僕が狂人的な振る舞いをひたすらするという、狂気以外の何ものでもないということになる。

まあ狂気だろうと思う。

Twitterならまだ変なこと呟いても何かしら奇跡的に誰かのタイムラインに乗る可能性はある。

でもこのブログは以前こそ、Twitterに記事を載せたりすることもあったけど、今はその行為すら面倒というか、必要性を感じなくなり止めてしまったので、誰かの目に留まる可能性は奇跡に近い。

そんな状態でも書き続けるというのは本当に狂人だと思う。

でも特別な狂人ではなく、世界中に数多存在する狂人の内のごく下級レベルの狂人に過ぎないとは思うけど。

こうやって誰もいない所でも、謙遜している風を装うこと自体がヤバいやつなんだと思う。

とは言え、現実世界においてはある程度一般の人間扱いは受けている。

そうなれば特に問題はないんだと思う。

ここで書いている僕と現実世界における僕。

極端に乖離し始めると危険性はあるかもしれないけど、今のところそれはない。

十分に行ったり来たりを楽しめている。

問題は行ったっきりになることで、どちらかを揺らいでいる内は全く問題ない。

そうやってのらりくらりとやっていけたらそれでいいと思っている。

 

大丈夫きっと上手くいくよ。

 

先々のこと考えると疲れるから止めておこう。

久しぶりにダラダラと書きたくなった。

人と話をするのはいつまで経っても苦手なのは変わらない。

周囲からはそんなことはないんじゃないかと言われることもある。

そりゃそうだと思う。

人生時間が経てばなんとか無理してやれば苦手ではあるが、出来なくもないこともある。

ただ無理をして人と話をしているだけで、好き好んで人と話をしている訳ではない。

まあたまには楽しく会話を交わしていることもあるかもしれない。

でもそれは話をしやすい人としているだけであって、誰彼構わず話をするわけではない。

それに人と話をしていても長くは続かない。

というか結構早めに疲れてくる。

それは仲の良い友達でも同じだ。

最初は楽しくてもだんだんと早く帰りたくなってくる。

帰るころには逆にまだ帰りたくないなとなるけど、それは錯覚で二件目になんて行きたくない。

そんなことしたらただただ疲れるだけだ。

 

まあ最近はそんなこともなくなったな。

どんどんと自分の思うような環境になってきている。

それもまた凄いことだなと思う。

人との付き合いは本当に減った。

煩わしさしかなかったからそれで良かった。

でも本当に仲の良い友達とも疎遠になったことは少し寂しい気もする。

人との付き合いをしようとすると余計な付き合いまで増える。

あれはいったい何なのか。

特定の自分の好きな人とだけ繋がっていたらそれでいいのに。

余計なものまでついてくるはなんでか。

それがなければ人付き合いを続けていても良かったけど、そうもいかない。

社会というのはそういものなのかもしれない。

そう考えると社会というものは面倒だなと思う。

 

社会性を備えているように見せて僕は全く社会性が無い。

そもそも社会性がどういうものか理解していないので、社会性を持っている訳がない。

僕の勝手な解釈では協調性に似た言葉なのかと思っている。

協調性はない。

あるように見せてない。

それももう今の会社の人たちにはばれている可能性がある。

そうなってくると誰も僕には寄ってこない。

仕方がないなと思う。

それが僕の望む環境だから。

色々な人が僕に手を差し伸べてくれる。

すごくありがたい。

でも有難い反面重くも感じる。

その差し伸べた手を握りたい時もあれば、全く握りたくない時もある。

そうただの気分屋なのである。

そんなだから人と付き合いたい時もあれば全く関わりたくない時もある。

そうなると相手に合わせるのが面倒なので、じゃあいっその事辞めておこうとなる。

でもそれでいいとも思っている。

先も行ったけど、人付き合いというのは好きな人とだけできるものではなくて、余計なものまでついてくる。

余計な者のことまで考えていると好きな人との楽しい気持ちが忽ち消えてしまう。

そんなもったいないことはない。

だったら最初からなかったことにした方が良いなと思う訳で。

そう僕はまだまだ子どもの精神しか持ち合わせていない。

でもこれは死ぬまで変わらないだろうなと思う。

今のところはそこまで困ってないので、困った時にどうするか考えようと思う。

転ばぬ先の杖も良いけど、先々のことを考えて対応するの大変だし。

今の事だけ考えて生きるようにしよう。

 

大丈夫きっと上手くいくよ。

 

ベストコンディションとは一体

ここ数年というか、仕事を始めてからずっとだと思うけど、身体の状態がいかにすれば良い状態になるのかとか、良い状態を保てるのかということを考えているような気がする。

考えているというよりも迷走していると言った方が正しいかもしれない。

状態を改善する方法が見つかればをそれを試し、また違うものがあればそれを試し。

あーでもない、こーでもないと模索を続けている。

良い状態に成りたい、保ちたいというよりは試すことに重きを置いている部分もあるかもしれない。

さらにはより簡単で、より続けやすい、より自分に合った方法を探している。

10数年やって来てようやくわかったのは、絶対はないということだけ。

ただ唯一の最高の方法なんてないということしかわかってない。

というのも、そもそもがベストコンディションの基準がないこと自体が問題なのにそこに全く気付いてなかった。

基準がないのにもっと良くなりたいと言っても、タイム計測してないのに100m走の練習をひたすら繰り返し、もっと早くなりたいと言っているのと変わらない。

感覚的に良くなった、悪くなったというのではいつまで経ってももっともっとと、より良くなる方法を求め続けてしまう。

そうではなくて、ある一定の基準を設けて、この状態が自分の良い状態であり、この状態を維持するためにはどうすればいいかと方法を模索していくことが必要だった。

このことにもっと早く気付けたらよかったのに。

まずやるべきはなんでもいいから基準を設ける。

その基準を元に状態を維持・向上させるための良い方法は何かということを模索していく。

良い方法を探し続けることも大事だけど、基準を随時見直すということも大事。

設けた基準がベストコンディションを表すのに相応しいかどうかも検討しないと、刻一刻と状態は変化するから、無理な基準を設けている可能性も十分にある。

そうやって少しずつ微調整を繰り返しながら、その時々のベストコンディション目指せばいいのかと思うと少し安心する。

20代のベストコンディションと40代間近のベストコンディションが同じな訳がない。

もちろんいつまでも若い状態を保ち続けられるのが理想ではあるけど、理想と現実は違うし。

人の身体は自然の一部だから時と共に衰えていく部分はたくさんある。

それを受け入れながら、ベストを保ち続けられればなと思う。

まずは基準か。

 

改めて書く必要もなかったこと。

ふと書く

そう書くとなんとなくオシャレな感じがする

爽やかな感じ

僕の陰湿な内面を反映していない感じ

書き始めが大事でその流れを受けてあとの文章が続く

と言いつつも作家でない僕の文章は行きつくところはいつも同じ

それでいいと思っている

誰も見ないのに一々構想を練ったりしない

練ると手が止まって

書きたいことがあったとしても書けない

 

今日は土曜日

念願の休日

このために働いている

それだけのためと言えば意識が低い人間と言われるかもしれない

でもどれほどの人が向上心を持って仕事に取り組んでいるのだろうか

国勢調査をする前に仕事に対しての人勢調査をしてもらいたい

その結果が今の日本の状態を反映しているのだと思う

ぼくの予想では、というか期待では半分以上が向上心はない、であって欲しい。

 

というのを昨日書いてる途中で置きっぱなしにしてたから、一応ここに記しておく。

向上心こそ毒じゃないか

なんとなくそう思った。

現状維持ではいけない、成果が出なくても気にせず進み続け、やり続け、成長していくことこそが人生の目的であり、生きている意味がある。

そんなように聞こえる時がある。

僕は向上心はない。

楽しいから続けるのであって、上手くなりたいからやっているのではない。

向上することを目的にしていると、向上しないことに苦しさを感じ、疲れてしまう時がある。

だから向上心を持てというのも良し悪しなのかもしれないなと思った。

ヨガイントラコース26日目を終えて

無事に終わりました。

最後の60分クラスを他の方がされて、ペーパーテスト、パートナーヨガをやって終了。

最後に少しだけお疲れさん会をやってお開き。

ちょっと寂しさをあるけど、これで終わり。

半年間やってみて大きな変化もあったし、これをこれからどれだけ継続できるか。

ただその一つにかかっていると思う。

明日から新たに自分が切り開いていくヨガライフが始まると思うと楽しみです。

明日の朝からまた楽しんでいこう。

長く楽しい旅路になると思う。

誰かに教える機会もあるだろうし、色々と考えることもある。

揉まれながら毎日楽しんでいくだけ。

お疲れ様でした。

 

大丈夫きっと上手くいくよ。

恭平さん今日までありがとう。

これからも宜しくお願いします。