いえるの日記帳

「いえる」とは癒える、言える、家る場所を提供するお店のこと。店の名前は決まったけどサービスは未定。準備中です。

スッキリするためだけに書く

なんかわからんけど、仕事の後半から体がしんどい。

特に疲れた1日でもないのに。

スッキリしないのはなぜか。

人と話をしないのも気持ち的に溜まる部分があるかもしれないけど、それ以上に人と話をするとなんとなく溜まった。

別に何気ない会話かもしれないけど、それでもなんとなく相手の空気感から察するものがなんとなく感じ取れた。

相手は特に意識してないのかもしれないけど、何か感じる部分がある。

僕はこういう部分があるので、疲れやすいところがあるかもしれない。

心が柔らかいというのか、心が弱いというのか。

人よりもそんな部分があるのかもしれない。

そういったところを補う、克服するために色々とやっているのかもしれない。

こうやって文章を書いたり、畑へ行ったり、ピアノを弾いたり、筆ペンの練習をしたり、コーヒーを焼いたり、コーヒーを淹れたり、ヨガをしたり、トレーニングをしたり。

紛らすためにやってるのかな。

根本的な解決にはつながっていない部分もあるかもしれない。

その場しのぎ的なところが多いかも。

でもその場その場でやりたいことをやり続けることで精神的に落ち着くというのか、気持ちを違う部分に向けることができているのかもしれない。

そのおかげて今日まで生きて来れている。

この行動が性に合うのかもしれない。

一徹で、鉄壁で、強靭な心というのは向いていないのだと思う。

人それぞれの対処法があるから、これは自分で見つけるしかない。

他人に応用できるものではないと思う。

かと言って僕の技術がすごいとかそういうことを言っているのではなくて、それを見つけることが結構重要だということ。

誰でもできることを日々やっている感じ。

歯を磨く程度のことしか僕はやっていない。

むしろそれぐらい簡単なことでないと毎日続かないのではないかと考えている。

それを日々少しずつ積み重ねる。

それしか方法はない。

劇薬はないし、劇薬はリスクも大きいと思っているから手は出したくない。

でも劇薬ってどんなことがあるんだろうか。

もしあれば教えて欲しい。

劇的な現状を変える方法。

リスクはあろうともやってみてもいいかもしれない。

なんでも試してみたい。

試してみることに失敗はないと誰かが言ってた。

それを毎日繰り返すことでなんか自分に合うものがるんだと思う。

僕はあっちへフラフラ、こっちへフラフラして生きる道を歩いてきた。

何かに導かれるようなほどでもないけど、そんな感じで生きている。

根無草のように頑張らずに行動を繰り返している。

沈むたびに学習できればいいけど、同じことを繰り返し。

その中でちょっとずつ変化を感じ、生き延びているような感じ。

だから誰でもできる。

これを実践すれば幸せになれるかどうかはわからないけど、生きていくことはできるんだろうという確信は少し出てきている。

それだけでも生きる希望になるのではないだろうか。

できるだけ周囲に迷惑はかけないつもりだけど、実は結構迷惑をかけているかも。

なので、周囲の人々に助けられながら赤子のように生きている。

そういう自覚はある。

ありすぎるぐらいある。

だから偉そうにはしない。

偉そうにできるのは自分が独立していると確信できる人だけ。

そんな人は世の中に一握りもいない。

宇宙からある特定の星を見つけるぐらい難しいと思う。

そんな存在に憧れる部分あるけど、それは自分には分不相応であると早くから認識している。

人に依存して生きていくことに決めるとあとは楽だなと思う。

その意識を持てるかどうか。

ある種の覚悟かもしれない。

一生赤子で生きるという。

赤子だからできなくて当たり前と思って毎日を生きるというのもいいのかもしれない。

楽しんで赤子ライフ送っていこう。

 

大丈夫きっとうまくいくよ。

目的はなく、その行為自体に意味がある。

人と会話することが年々減っているような気がする。

元々口数が多い方ではないけど、最近特にそう感じる。

人と会話というよりも、会話する人が減っているの方が正しいか。

特定の人とはそれなりに話はするが、どんどん付き合う人が減っている。

自ら進んで、どこかの輪に入って行こうとする気が無くなってきている。

とは言えすごく閉鎖的にになっている訳ではないから、精神的に病んでいる訳ではない。

どちらかというと没入していって結果多くの人と関わるのではなく、特定の人と関わるようになってきたんだと思う。

元々社交的に性格ではないから、それが歳を重ねるごとに強くなってきたという、いわゆる加齢現象か。

加齢現象が生じるにはまだ早い気もするが、なんでも早めに取り入れたいという基本的な性格も相まって人よりも先を行っているのかもしれない。

よく高齢者をみていると意固地というのかこだわりが強いというのか、そんな感じに自分もなっている。

じゃあやっぱり閉鎖的ではないかと思われるかもしれないが、排他的ではあっても閉鎖的とはちょっと違う。

自分の求めるものには行動するが、それ以外はどうでも良くなっているだけの話。

他人に興味があまりなく、共感という境地からは程遠い人生を送ってきたけど、それが極まりつつあるのかもしれない。

それが良いか悪いかは今の所わからない。

認知機能は関係人口と関わりがあると聞いたこともある。

関係人口が減少するとそれに伴い認知機能も低下するとか。

であるならば認知機能の低下を状況下にあるのかと思うとちょっと心配にはなるが、これからコーヒー販売したら関係人口も自然と増えるだろうとか勝手に妄想しているから大丈夫なんだろうなと結局安心する。

誰かと関わりたいと心から思ったことはないから、たとえ関係人口が減ったとてそこは大して大きな問題はないと思っている。

それ以上に影響を与えるのはやっぱり好きなことが出来なくなることだと思う思っている。

本を読む、字を書く、コーヒー焼く・飲む、運動する、遠出する、畑行くなどなど。

行為自体に意味はない、何が目的があってこそ人生は豊かになるなんて言われたことがあるような気がするけど、僕にはその行為が大事で、行為ができることに喜びを感じる。

目的なんてなんでもいいからその行為を長く続けられるようにしたい。

なんのためにそれをするんですか?誰とそれをしたいですか?とか聞かれることがあるけど、目的もないし、誰としたいかとかもない。

ただそれをしたいだけ。

そこに意味を見出す必要はない。

そう思ってこの文章を書いている。

もっと気楽になんでもやればいいのになと思う。

世間は複雑にしすぎてるし、その割に単純化しすぎてる部分もあったりでよく分からないなと思う。

自分のしたいことをしたいようにしたらいいのに。

久しぶりに書いてまたスッキリした。

人はどういう選択をしながら生活しているんだろうと思う時がある。

二択はきつい。

 

子供の時からたぶんほとんどその選択の仕方をしている。

 

幼稚園行くか行かないか。

小学校に行くか行かないか。

塾に行くか行かないか。

成績が良いか悪いか。

公立か私立か。

文化部か運動部か。

モテるかモテないか。

男か女か。

進学か就職か。

都会か田舎か。

やるかやらないか。

仕事に行くか行かないか。

 

そんなことを日々繰り返してきた。

人生は選択肢の連続とは言いつつ。

選択肢そんな無くない?

と思う。

 

選択を繰り返されると疲れるのかもしれない。

まあこうやって書いているのも選択しているからこその行動ではあるけど。

 

他の人はどうやって人生を生きているのだろうと時々知りたくはなるけど。

本音を語ると言うのはなかなかに難しい。

照れや恥ずかしさがどうしても出てきて、かつその本音を相手がどう捉えるのかと言うことが気になるからあまり言えない。

そんなことがしばらく続いているように思う。

 

サンキューの年を迎えて世のために行動する

前回に引き続きもやもやがすぎるのでもう少し書いておこう。

 

昨日も新たなもやもやが発生した。

学生時代からの元同僚が職場を退職するから、後輩からその元同僚にサプライズでメッセージを欲しいと連絡があった。

元同僚は最後は多分その職場で長を務めていたと思う。

おそらくは周囲からの人望もあり、尊敬されている存在だっただろうと言うことは容易に想像がつく。

元同僚と袂を分けて早10年恐ろしいほどの差がついていることにもやもや。

まあどれほど仕事に時間と情熱をかけてきたかという差が歴然としている以上。

そこに変に執着しても仕方ないとは思っているが、少しもやもやを感じている。

現実とはやはり残酷なものだとも一瞬思えた。

でも僕があの職場を先に辞めたときに、お互い別の道を歩み始めていたのだから、現在地が全く違うところにあると言うのは当然と言えば当然のこと。

今更思い返す必要もないこと。

それを差と捉えるのか、いる場所がただ違うと捉えるのか。

それだけの話だと思っている。

でも僕は人にはあまり見せないが、負けず嫌いの、僻み根性ありまくりの鬱屈とした性格をしているので、その状況をすぐには受け入れられず、とりあえず後輩から連絡が届いたメッセンジャーを開いたついでにfacebookを開いた。

そこにはまた見たくない現実が多く投稿されていた。

他の元同僚もまた別の道を歩み、自分のやりたいことをやっています的なことを滔滔と書いてあった。

そうかみんなやりたいことやってんだなと。

僕もやりたいことあったんじゃなかったっけって思ったらなんとなく寂しくなった。

今まで同じところで悩んでいるような気がして、結局は10年前と大差ない生活を送っている。

 

まあ結局はそういう風に選択したのは自分であって、他の誰の責任でもないことを考えると誰を責めるとか、誰が悪いとかでもなく、ただその現実がそこにあるだけということだけど。

 

もんもんとするのが僕は好きなのだと思う。

そのおかげでこうやって好きな文章を書けている。

ネタとした現実があると捉えれば別になんとも思わなくなってくる。

ただこの文章を仮に読む人がいるとすれば、そんなことは感じずに、めんどくさいやつだなと思うはず。

 

まあこれだとまたいつもと同じところで止まってしまうので、もう少しだけ違う風に考えてみようと思う。

 

元同僚たちの歩みを見ていると、ただ今目の前にある課題に取り組み、どうしたら楽しくなるか、どうしたらその課題を乗り越えられるかということをひたすら考えた結果が今の現状の生活なんだと思う。

だから、それがすごいとかすごくないとかそういう次元の話ではなく、行動の結果そうなっただけ、目についたところに対して、解決するための行動をしてきた。ただそれだけなのではないかなと思う。

 

そう考えると今の僕の現状においては十分満足できる。

海があって山があって、そんな中で毎日海を見ながら仕事をして、休みの日にはコーヒーを焙煎し、好きな時にコーヒーを飲み。畑に行って適当に野菜を育てて、収穫できたら食べる、うまくいかなかったらまあえっか。

そんな感じでゆるく生活するということに重点を置いて生きてきた。競争や無理をするということを一切やめて生活する。

それが何よりの人生における大事な点だと思って10年ぐらい生きてきた。

 

よく考えると誰かのためにという点が欠如している気がする。

それだけは全くと言っていいほど行動指針になっていない。

先の同僚たちのことを考えると彼らは困っている人を助けたい。その一心から行動を起こし、最終的に自分の歩みたい方向と他者への想いが合致し、自分のやりたいことをやっている。

 

そうか他人への思いやりということが人生において重要なのではないかと感じる。

そこが周囲からの応援を得られるかどうかなのか。

 

なるほどようやく合点がいった。

僕も39年生きてきて、人のお世話になりっぱなしの時間をこれまで過ごしてきたけど、これからは世のため、人のためになることを一つでもやってみよう。

そう言えば39歳になったら、「サンキューの年」ってことでどんどんお世話になった人たちに何かお礼の印をしたいと思っていたのだった。

87歳で死ぬ予定にしているので、これからの48年はずっとサンキューを伝えて、世のため・人のために少しずつでも行動していける人生にしていこう。

有限な選択肢:折り合いをつける必要がある

めちゃくちゃ久しぶりなことに驚く。

一時あれほど狂ったように書いていたのに気づけば9月から書いてなかった。

元々熱し易く冷め易いというのはわかってたし、自分のペースで書けばいいかなと思ってたから力がだんだんと抜けていたのもわかってた。

 

前厄を迎えた。

そんなに生きたかと思うとある意味感慨深い気もする。

この年まで生きているというのが現実的ではなかったように思う。

別に大病をしたとか、死の危険にさらされた経験があるとかそういうことではなくて、ただ単純に想像したことがなかっただけの話。

 

そんなに先のことを考えていきたことがない。

いや、ないこともないか。

20代の頃は何かとノートに書いて、30代ではこう、40代ではこう、みたいな理想の状態を細く書いていたかな。

書いても振り返ることはあまりなかったから、どんなことを自分で書いていたのか忘れたかな。

忘れてもないか、なんとなく恥ずかしくて記憶の片隅追いやっていると言った方が正しいかな。

自分の思いを正直に出すことが恥ずかしくなってきている。

どうしたいとか、はっきり言えない。

夢見ることが恥ずかしいのかな。

夢すらないのかもしれない。

30代色々と経験したけど、その経験が全く活かされていない。

そもそもが何かに活かそうと行動してきたことがあまりないかもしれない。

薄っぺらい人生を生きてきたように思ってしまう。

これまでどんなことをして生きてきたのか。

記憶があいまいになってきているかもしれない。

もしくは思い出さないように脳で勝手に制御しているのかもしれない。

それがなんでかはわからないけど。

 

とりあえず今日も頭に浮かぶことだけをひたすら書くようにする。

誰にも読まれていないことを前提としてひたすら書く。

とか言って今日もすぐに終わる可能性もあるけど。

 

気分屋のフリをして生きてきたようにも思う。

 

どこか特別だと感じたい自分がいるから、人と同じように行動するのがいやだから、気分屋のフリをしてきたのかもしれない。

気分屋というのがなんかかっこいいと思っているのかな。

 

自分一人で深層心理まで掘り下げるのが中々難しいかもしれない。

人と話をしていると自分自身のことに気づくことができる。

でも人と話をするのは煩わしいし、気に入らないことを言われるのではと思うから、あまり積極的に人と関わろうとも思わない。

 

いわゆる思春期の状態から精神状態が成長していないのかもしれない。

自己を否定されるのに人一倍恐れている。

比較されるのを極端に嫌っている。

比較されて優劣をつけられることに怯えているのかもしれない。

 

等身大の自分を知るのが嫌なのかもしれない。

曖昧なままにして抽象的な状態を続けるのがちょうどいいんだと思う。

曖昧な方が逃げ道があるから。

逃げ道を作るための行動が優先順位としては高い。

決めると他ができないから。

そういう風な行動を取ってきたから、今がある。

その行動に対して責任を取ろうとしない。

環境のせいにはしてないし、誰かのせいにもしてない代わりに、自分でも責任を取ろうとしていない。

そこが一番の弱点かもしれない。

 

弱点を突かれるのが嫌なのかも。

正論は聞きたくない。

人は生活するために仕事をしないといけない。

仕事が楽しいとかそういう余計なことは考える必要はない。

どうもそういうのに合わないらしい。

かと言って世間と大きく離れたところで暮らせるかというとそんな勇気もない。

どこまでも中途半端な立場で生きている。

 

そのくせ他人をどこか下に見ている部分もある。

人のために何か行動したいと思うことはない。

ないこともないけど、それが自分の行動の力源となることはない。

では行動の力源はどこにあるのか。

いわゆるモチベーションってどこにあるのか。

それって個々人では違うとわかっているが、そんなもの果たして存在するのか。

モチベーションって、わかりやすいようでわかりにくい。

 

言葉の責任というか、言葉の使い方が間違っているから、こんな風に毎回同じ内容を書いているのかもしれない。

堂々巡りするのが得意。

どこまで行っても同じところを巡っている。

 

どこかで折り合いをつける必要がある。

あれもこれもできない。

時間も金も健康も有限。

有限であるということは当然わかっているつもり。

にも関わらずずっと同じことを言い続けている。

 

何かを変えた方がいいのか。

それともこのまま同じことを言い続け、同じ悩みを抱え続けるのがいいのか。

どうしたって最終的には自分が選択するしかない。

それもわかっている。

だれかが自分の行動を代わってやってくれることはない。

 

疲れるけど、同じことをやり続けている。

とりあえずもうやめる。

今日はここまで。

作って食えればそれでいいんじゃない?

「近くにスーパーがない、八百屋がない誰か売りに来てほしい」

 

その方はどれぐらい元気なんだろうか

どこまでなら出れるのか

買いに行く手段がないのか

代わりに買い物に行ってもらえる人はいないのか

 

少し話を聞いただけで詳細はわからない。

 

でも田舎では近くに店がないから欲しいものが買えない。

よく聞く話。

地方都市に住んで3県目。

大体どの地域でも聞く話。

何をどうすれば解決する問題なのか。

 

・店を新しく作るのか

・移動販売車に来てもらうのか

・交通手段を構築するのか

・配達してもらうようなサービスを創出するのか

・地域の繋がりを新たに作り、その繋がり活用して買い物ができるようにするのか

 

買い物問題について考えられる現時点での僕のアイデアはこんなもの。

でもこの発想だけでは解決できないからみんな困っているんだろう。

 

・店を新しく作る

商圏が狭く、顧客の数も少ないから新たに作ったところで大した売り上げはない。そもそもそういう地域だから店がどんどんなくなっている。新たに店を作るメリットは何もない。借金を生むだけ。

 

・移動販売車に来てもらう

店を作るのと同じ理由

 

・交通手段を構築する

上記2つと大体同じ。人が少なくなると最終的には採算が合わなくなる。

 

・配達してもらうようなサービス

誰が配達するのか?ここがまず一番の問題。人で不足と言われている世の中でこれだけのためにサービスが成り立つとは思えない。

 

・地域の繋がりを新たに作る・・・

これほど難しく、時間のかかるものはないし、予測もできない。信頼の上に成り立つものを頼りにすることほど確実性の低いものはない。結局善意だけでは継続できない。

 

お金と時間と労力に見合うようなサービスがないからみんな困っている。

 

ある地域から別の地域へ何かを移動させようとすると何かしらのコストはかかる。

そこを無視することはできない。

 

となると困っている地域の中でどこかから解決のアイデアを持ってきて、その地域自信で課題を解決するように話を進めていくのが理想的。

そうすればどこの地域でも通用するようなものが出来上がる。

そしてここに出来るだけお金を介在させないようなアイデアであれば尚良い。

儲けを考えると何も立ち行かない。

かと言って善意だけでは継続できない。

 

できるだけ誰も儲けないように、だれかの善意に頼らないようなアイデアがあればいい。

 

そう考えた時に自給自足というのが一番現実的なのではないかと考える。

移動が必要ないし、儲けることもない、善意ではなく自分のために動くだけだから頼るのは自分、続けるか続けないかも自分次第。

 

自給自足のために必要なものは身体。

たったこれだけ。

もっともコストが低い。

もちろん土地がなければ作れないからそこはなんとかする必要があるけど。

 

「農業」と業がつくと儲ける必要があるけど、これは業ではなく、自分のためにつくるものだから、儲けを考えず自分が食べるだけという最小の労力だけで済むから、無理をする必要がない。

自分のために作っていたけど、余剰分が出れば、売るなり、分けるなりすればいい。

一人の人が生きていくために必要な野菜とその野菜を栽培するために必要な土地の面積を計算し、必要な資材等を手配して栽培していけばいいんじゃないかな。

 

これってそんなに難しいことなのかな。

自分で野菜を作っていて、確かに思うように収穫量が上がらない時もある。

でもそれってやるべき時期にやることをやってないということが主で、よほどの天候不良がない限り大体できる。

あとは獣害だけ。

獣害さえなければ野菜は育ってくれる。

難しい話ではないと思うんだけど、元気な人ならだれでもできそう。

 

地域の高齢者何人かでチームを作って、野菜別に担当を分けて、それぞれ自分の食べない分は交換し合うようにしたら良いような気もする。

 

そういう風に上手くいかないかな。

これ誰かに聞いてみようかな。

ユーヒとコーヒーとについて

珈琲の自家焙煎豆を販売することにしました。

と言ってもまだ営業届を出したところで受理されていない状態。

先月末ごろに届出を出したけど、まだみたい。

結構時間がかかるんだろうか。

 

とりあえず今決まっていることは、屋号だけ。

屋号はタイトルに書いた「ユーヒとコーヒーと」

最初はユーヒを漢字にしようか迷ったけど、なんとなく堅い感じがし、カタカナにしたら「ユーヒ」と「コーヒー」が似ていたいのでなんとなくいいなと思ってこの文字に。

 

夕日もコーヒーも前から好きで、どっちもほっこりする。

 

夕日は最終的には海に沈んで空が暗くなってしまうから、ちょっと寂しい感じもするけど、今日も無事終わったありがとうと感謝できるし、太陽の色と空の色がなんとも言えずボーっとずっと見てられる。

 

コーヒーはなんであんなにほっとできるのかというぐらいに飲むと思わずほっと口にしてしまいたくなるほっこり感がある。

なんとも言えないあの瞬間。

味ももちろんのことあの瞬間が好きでコーヒーを飲んでいるようなもの。

 

砂浜で夕日を見ながら、コーヒーを飲むと最高の時間を過ごすことが出来ました。

 

僕にとっては夕日とコーヒーの組み合わせが最高の時間でしたが、コーヒーとの組み合わせが人の数ほどあると思うので、いろんな場面でコーヒーと素敵な時間を多くの人に過ごしてもらいたいなと思って自家焙煎豆を販売するに至りました。

 

沢山の人に飲んでもらいたいので、良い準備をしていきたいと思います。

また少しずつ自分の思いを上手に伝えられるようになれたらと思います。